サウジ=イラン関係は悪化の一途たどる恐れ
しかしその後サウジは潤沢な石油収入を背景に、厳格なイスラム信仰を主張してシーア派を異端とみなすスンニ派「サラフィー主義」の守護者に任じ始めた。逆にイランは1979年の革命を経て、「ヴェラーヤテ・ファギーフ(法学者の統治)」という教義を採択し、同国の最高指導者がシーア派の頂点に君臨することになった。
こうした宗派上の路線の違いで相互不信が生まれ、地政学的に両雄相争う事態へとつながった。
またイランは、1980─88年の対イラク戦争の後、アラブ諸国内のシーア派勢力との結びつきを利用して新たな敵の侵攻に備えた拠点を築く「前進防衛」戦略を打ち出したが、サウジはこれを革命を扇動して地域の安定をかき乱す動きだと不安を抱くようになった。
そして1988年にテヘランのサウジ大使館が襲撃されると、イランとサウジは国交を断絶。サダム・フセインのクウェート侵攻への対応で一時的に敵対関係が棚上げされたが、2003年にフセイン政権が崩壊してイランがイラク国内で多数を占めるシーア派を利用して影響力を強めたため、双方がより公然と対立するようになった。
対立がエスカレート
足元では、両国の対立がエスカレートする余地がある。
カーネギー国際平和財団のシニアアソシエーツ、Karim Sadjadpour氏は「1979年以降、両国は中東各地域でずっとさまざまな代理戦争を闘ってきた。しかし直接対決は自制し、最終的に冷戦状態に落ち着かせることに合意している」としながらも、イランが今後、国交断絶したサウジやバーレーン国内のシーア派コミュニティに騒動を起こさせようとする可能性があるとの見方を示した。
サウジによるニムル師処刑後、同国やバーレーンのシーア派による抗議行動が再燃し、イラクではスンニ派の2カ所のモスクが爆破された。サウジ側はこれらをイランの使嗾(しそう)とみなすかもしれない。