「自分の言葉」がある人が、必ず持っているものとは? 必要となる2つの要素
「自分の言葉」を持つために必要な2つの要素
では、いったいどうすれば、「私らしい言葉」を得ることができるのでしょうか? 「私らしい言葉」は、自分が得てきた語彙(単語/ボキャブラリー)と、実際に積んできた経験から、発見され、磨かれていきます。
語彙だけでも、経験だけでもいけません。その両輪、すなわち身に付けてきた「語彙」を使って、いままでの「経験」を言語化する。それが「私らしい言葉」を得るということです。
さらに、経験を言葉にしていくとは、どういうことでしょうか。それは、経験から生まれたすべての感情をきちんと味わうことです。
経験に全身で向き合い、感じ、それを言語化し、学びや知恵、今後の教訓として落とし込んでいきます。そうであるからこそ、言葉とは「自分の人生に向かい合ってきた証」だと、私は考えています。そして、言葉の解像度は必ず、その人の思考の解像度に比例します。
写真を撮るとき、解像度が高くなるほど、そこに写し出される世界は鮮明になります。解像度が低いと、世界は粗くぼんやりと写し出されます。その解像度のようなものが言葉についても存在すると思うのです。
正確かつ詳細に世界を捉え、写し出そうとする言葉、つまり解像度が高い言葉を使う。そのように心がけていくことは、世界のディテールをよく観察し、感じ、思考することと同義です。
自分の感情をうまく伝えられない理由
外国語を学んでいるときに、いちばん欲求不満が募るのは、自分のアイデアや感情を的確に相手に伝えられないときではないでしょうか? 伝えられないことが欲求不満につながるのはなぜでしょうか? それは、感情と言語に、解像度の差があるからです。
心のなかにある繊細な感情(=解像度が高い)を表現するための語彙力を持ち合わせていない(=解像度が低い)ため、粗い表現になる。その差を認識したときに、思ったことが伝えられていない、私の心情はこんなものではないという、もどかしさにつながります。
「好きだけど会いたくない」「ほっとしているけれど寂しい気持ちもある」というようなはっきりしない心情を伝える場合も、その複雑な感情を正しく表現できないと不満が募ります。
また逆に、きちんと自覚できていない感情やこれまで味わったことがない感情(=解像度が低い)は、母国語でもまだちゃんと言語化できていないので、もちろん外国語で表現するのは難しいでしょう。