『リーン・イン』を期待された高学歴女性「ヒーブ」の苦悩は、男性にとっても他人事ではなかった
ヒーブは女性であるがゆえに企業に居場所を得ていったが、性差別的な処遇にはもちろん不満を示し、家事や育児をめぐる負担の性別不均衡にも問題を感じ、男性中心の企業文化にも鋭い批判の目を向けていった。
その意味ではジェンダー不平等が是正される社会を望み、それでも与えられた環境のなかでキャリアを積み、仕事も家事も育児も頑張ることを通じて、周囲の状況を少しでもよりよいものにし、自らの生をよりよいものにしていこうと努力していた。
本論では直接言及していないが、アメリカのシェリル・サンドバーグによる『LEAN IN(リーン・イン)』(*2)に対して、強い批判があることを知ったのは、ヒーブの史料をある程度まで読み進めた頃のことであった(このことは、私がもともとジェンダー史・フェミニズム史の専門家ではないことを物語っている)。
そうした「リーン・イン・フェミニズム」批判(*3)は、家事労働をめぐる国際労働移動の問題性(グローバル・ケア・チェーンの問題性)や、人種の問題をはじめとしたインターセクショナリティの観点を含みながら、新自由主義的な競争秩序と親和的なジェンダー秩序のありようを総体として批判するもので、構造的な把握それ自体としては私にもよく理解できたし、そのことに全く異論はない。
しかし、その批判が(構造への批判ではなく)与えられた環境のなかで頑張ろうとする/頑張らざるをえない個々の主体に向けられるとすれば、それはあまりにも過酷なことであるように思えた。
リーン・イン・フェミニズム批判に接してみると、ヒーブの史料からは、男性との関係だけでなく、女性との関係のなかにも居心地の悪さを感じていたことが読み取れた。
ヒーブの史料を読み始めた頃には、「この人たちが頑張ってしまったから、いまみんながつらいんだろうな」と思うことがたびたびあったが、「仕事と家庭の両立なんて贅沢だ」、「少子化はキャリア女性のせいだ」といった潜在的な批判に、同時代のヒーブも直面していた可能性に思い至るようになり、それ自体が重要な論点であると理解できるようになった。
本論でみていくように、ヒーブは、いわゆる「男並み化」を果たして男性中心の雇用社会に適応したという(ステレオタイプ化された)エリート女性像とは異質である。
しかし、リーン・イン・フェミニズム批判や、それと通じる「ネオリベラル・ジェンダー秩序」論(*4)(これは本論で取り上げている)が、もしそうしたヒーブの歴史的経験をみえにくくしてしまうことにつながるのなら、それはとてもよくないことのように思われた。
競争促進的な大学行政の影響もあり、学問をめぐる状況が厳しいなかで、私はたまたまいくつもの幸運が重なって、安定したポストを得てやりたい仕事に打ち込めている。そうした幸運のなかには、私が女性であれば訪れなかったものがいくつも含まれていたことだろう。