ヘレン・ケラーの存在まで疑うネット上の陰謀論
Too Saintly to Be “Real”
ケラーはその後、経済的な事情から米国盲人協会の仕事に就いたが、これも彼女の政治的な活動には妨げとなった。協会幹部の頭が、いわば固過ぎたからだ。
ニールセンは書いている。「彼女は一つの偏見から逃れたが、今度は別の偏見に縛られてしまった。もはや『政治的に操られている三重苦の娘』ではなかったが、今度は『政治的には無難だけれど美化され、ほとんど聖人扱いのスーパー盲人独身婦人』というわけだ」
こうしてみると、ケラーが生涯を通じて障害者の「ふりをしている」という偏見と闘う一方で、自分を美化し偶像化する動きとも闘い、自分の人間としての尊厳を取り戻そうとあがいていたことが分かる。
実際、彼女の生きざまは学校で教えられるケラー像とは異なる。「たいていの場合、彼女は感動的な手本として、さらには清廉さと高潔さの手本として描かれている」とニールセンは書いている。「子供たちは井戸端での逸話は教わるが、大人になった彼女の人生についてはほとんど教わらない」
自らも障害者である歴史家のキャサリン・カドリックは言っていた。「私たちは(ケラーのような人たちを)『スーパー障害者』と呼ぶ。あらゆる難関を乗り越えてきた偉大な人物だと」
SNS上でケラーに関するデマや中傷が飛び交うのも、どこかに「ほら見ろ、彼女だって聖人じゃなかったぞ」と言いたい気持ちがあるからだとカドリックは言う。「私たち障害者の多くはどこかでケラーを妬んでいる。彼女が常に汚れなき少女として描かれてきたからだ」
ヒーローは必ず反発される
アメリカの子供たちは(目が不自由ではない子も)幼い頃からケラーについて教わる。だが彼女に関する話のほとんどは、ケラーの幼少期の体験だ。例えば、家庭教師のアン・サリバンが自分の手に記したものが「水」を意味するのだとケラーが理解した感動的な瞬間についての、ひどく単純化された物語とか。
ニールセンは、連邦議会議事堂にアラバマ州を代表する人物として置かれているケラーの像が、井戸端に立つ幼い少女の姿であることに注意を促している。そこに焦点を当ててしまうから、ケラーは言葉と文字を知ったことで「まともな人間に生まれ変わった」という観念が増幅されるのだと、ニールセンは言う。あの彫像のケラーは聖人のようだが、そこから彼女の87年に及ぶ波乱に満ちた生涯(その多くは進歩的な主張の政治活動に費やされた)を読み取ることはできない。