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山本モジミ(北川景子)と4人の子供は隠岐の島で幡男の帰りを待ち続けた ©2022映画「ラーゲリより愛を込めて」製作委員会 ©1989 清水香子

この果てのような土地から地の果て、シベリアまで赴き死んでいった山本幡男さんの人生、この隠岐の風景と相まって流浪の民の旅する姿をイメージした。

一方、妻のモジミさんは隠岐の中心的な島である島後(どうご)の出身だった。彼女は戦後、日本に帰って島の内陸にある苗代田という集落で魚の行商を始める。

夜中に家を出て漁港のある西郷港まで20キロほどもあるだろうか、歩いて行き魚を仕入れ、戻りは朝一番のバス。そうして内陸の集落で魚を行商して戦後を生きたという。

「チャーミングなお母さん」に変更

幡男さんの長男、顕一さんに話を聞いた。母親はとにかくドジなお母さんだったと。

母親のとっておきの話は、西郷港に向かう途中に長いトンネルがあるのだが、真っ暗闇を通るとき、あまりの恐怖でお漏らししてしまったこと。事あるごとにその話を笑ってする母親が嫌だった。

その後、モジミさんは小学校の教員に復職。音楽と図工が大の苦手で、授業の前日は思い切り暗かった。料理も下手。一緒に住んでいた幡男さんの実母はそれらが完璧で、いつも負い目を感じていた。

原作にはこれらの逸話は一切ない。モジミさんは良妻賢母の日本の理想像たる完璧な母親として描かれている。

クランクインが数週間後と迫っていたが、顕一さんから聞いたチャーミングなお母さん像に変更した。

人間の本質は時代が変わってもそうは変わらない。ドジもすれば失敗もする。それがかわいい。そういう人物像にしていくことで、現代の若い人たちにも見てもらえる映画になるのではないか。そう思った。

だが、そんな母親が狂ったように泣いたのを顕一さんはずっと忘れられない。

ある電報が届いた時だった。モジミさんは畳の上を転げ回るように狂ったように泣きわめいたという。顕一さんが母が泣くのを見たのは、その一度きりだったという。

編集部から依頼されたこの原稿のテーマは「シベリア抑留とは何だったのか」だが、僕にはその大きな問いに答える自信はない。

ただ、映画の中でも描いているが、帰国事業が一時、中断したことがある。それは朝鮮戦争が起こった年だ。

朝鮮戦争に象徴されるように、当時の東アジアはソ連とアメリカの冷戦の草刈り場だった。そのような政治状況の中、米ソの勢力争いの渦中で、シベリア抑留問題も漂い続けたのではないだろうか。ウクライナとロシアの戦争の裏に、常にロシアとNATOおよびアメリカの綱引きが見えるように。

さらに、山本幡男さんの仲間たちが乗った興安丸、最後の引き揚げ船が舞鶴に寄港した年は日ソ共同宣言が出され、日ソの国交が回復された年と重なる。これはどういうことを意味するのか。

日本国内を見てみれば、シベリア抑留者の帰還問題は絶えず北方領土返還という政治問題の中で天秤(てんびん)に掛けられ続けていたのだ。

苦しむのはいつも無名の人々