閻連科:中国のタブーを描き続けるノーベル文学賞候補が選ぶ意外な5冊
徳田秋声から学んだこと
『縮図』(徳田秋声、46年)――これは、今日ではもはや日本の読者でさえ改めて読むこともない小説かもしれない。しかし80年代の半ば頃、この本とアメリカの作家マーガレット・ミッチェルによる『風と共に去りぬ』が、中国の「紅色経典(中国共産党をたたえる共産党的模範文芸作品)」の海の中から私を岸に引き上げてくれたのである。
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一足先に『風と共に去りぬ』によって革命物語以外にももっと面白い本があるということを知った私は、『縮図』によって政治、戦争、恐怖の空の下、徳田秋声がいかに人を愛し、市井の生活を理解するのかを知った。
徳田秋声もまた、『風と共に去りぬ』の素晴らしさ、その素晴らしさが大衆の好むところにあることを教えてくれた。そして『縮図』の素晴らしさは、チェーホフのように人間が生きるということについての厳粛な理解にある。一時期、何度も何度も繰り返し『縮図』を読んでいたので、初めのほうの長い文章をそらんじることができるほどだ。
徳田文学の叙述の簡素で的確で飾り気のないところに引かれた。その頃、この本と『聖書の物語』が頭の中に一虚一実の両極端として存在していた。今日に至っても、何となく本棚からこの『縮図』を取り出し、静かにぱらぱらとめくっては、目に付いたところを読んでいる。
『ペドロ・パラモ』(フアン・ルルフォ、55年)――現在、中国ではフアン・ルルフォのこの本を『佩徳羅・巴拉莫(ペドロ・パラモ)』と音訳するようになっているが、最初に中国に入ってきたときのタイトル『人鬼之間』のほうがいいと私は思っている。
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90年代の初め、この小説においては人間と幽霊の区別がないことに、私は気が狂いそうになった。この本のせいでラテンアメリカ文学と20世紀文学に夢中になった。記憶の糸をたぐることを、この本が私に教えてくれた。記憶に沿って故郷に向かったとき、私は土地に通じる隠された道を見つけることができた。
『発現小説(小説の発見)』(閻連科、2011年、邦訳なし)――これは私が読んだ本ではなく、私が10年に書いた文学理論の本である。私の創作に影響した本について語るとしたら、より内在的に私の文学に対する認識と創作を変えたのがこの本である。この本を書くことで、20世紀文学が19世紀文学と同じように偉大で素晴らしいものであることが分かった。本と著者が一緒にいたら、どちらが皇帝で、誰が奴隷なのかという主従関係が分かった。鎌とニラとニラを食べる人が分かった。
とりわけこの本が思い知らせてくれたのは、われわれは21世紀に生きているのに、書いているのは20、19、18、17世紀ひいては16世紀の小説と物語であるということだ。私が文学、生活そして21世紀において至らない作家であることをこの本が思い知らせてくれた。文学創作における浅学非才の徒であるということを。