六代目神田伯山が松之丞時代に語る 「二ツ目でメディアに出たのは意外と悪くなかった」
――そうなんです。そういう考え方もある中、二ツ目の段階でこれだけ注目を浴びている状況についてはどう考えていますか。
松之丞 そこはまったく同じ考えで、早いうちに当然芸を磨いたほうがいいと思うんですけど、ただメディアのほうとしても、真打でもない、僕ぐらいの30代のやつが出てくるほうが意外といいのかも、というのもあるんです。僕が芸を見せた時でも、「面白くないです」っていうリアクションができる状況は悪くないと思うんですよ。実際、『ダウンタウンなう』でも、浜田(雅功)さんが「あまりピンとこねえなぁ」みたいな感じのリアクションでいじってくれましたよね。その上で、「実は僕の後ろにはもっとすごい人たちがいるんですよ」というプレゼンをするのは、講談にとっても非常に効果的だなと思って。なので、二ツ目でメディアに打って出るっていうのは、結果論として、意外と悪くなかったなと。いずれにせよ、タイミングは自分で選べませんからね。そこはもう腹をくくるしかないというのもあります。
嘘でも改悪でもいいから、新しい工夫を見せるべき。
――厳然たる事実として、松之丞さんの存在によって講談というジャンルに注目が集まっているし、こんなに面白いものだったのか! って気づかされた人も多い。すると同時に、なぜこの面白さにこれまで気づけなかったんだろうとも思うんですよね。
松之丞 寄席でも、落語の間に挟まって「トイレタイム」みたいな言われ方をすることもありましたからね。寄席だと10〜15分の持ち時間で爪痕を残さなくてはならないわけですよ。そこでどう演出するかを考えたときに、例えば寛永宮本武蔵伝に『熱湯風呂』という30分ほどのネタがあるんですけど、熱湯に入る前に話を切り上げてしまう先生がいるんです。「さて、このあと武蔵は熱湯風呂に入り、いかがなりますでしょうか? ......が、お時間となってしまいました」って。お客様はその熱湯に入る描写を聞きたいのに、終わってしまう。あるいは、同じく武蔵の『狼退治』でも、狼が出てくる前に終わってしまったりする。それじゃあ、トイレタイムになっても仕方ないですよ。だから、僕はまず30分のネタを寄席用の短い尺に直す作業をしたんです。それは、僕が寄席の前座という状況にいることができたのも大きかった。いっぱい失敗もしましたし、その上で効果的な見せ方みたいなのを模索できる環境でしたから。
――「自分が客だったら」という目線があればこその改良ですね。
松之丞 それって当たり前のことだと思うんですよ。例えば、『中村仲蔵』に出てくる歌舞伎役者の仲蔵は、一生懸命、芝居の工夫をする人なんだと。そういう話をする時に、みんな工夫もなく型通りにやっている。おかしいだろと。そこは自分なりの工夫を、嘘でも改悪でもいいから、「私の仲蔵はこうです」っていうふうに見せるべきじゃないですか。そういうことは客席時代から思ってましたね。まあ、自分でも全部が全部うまくいっているわけではないですけど、その部分は大事にしています。