『悪童日記』訳者・堀茂樹と「翻訳」の世界をのぞく──外国語に接することは「寛容の学校」
堀:もちろん、努めて出さないようにしても、翻訳者の個性が出てしまうことはあります。同じ楽譜を演奏しても奏者によって全然違う音楽になるのと同じで、翻訳者によって作品の解釈(インタープリテーション)が違ってくることはあり得ます。
ただ、わざと自分を出そうとするのはだめ。心がけとしては、常に自制的、禁欲的でなければならないんです。
と言いつつ、実は私は性格的にあんまり翻訳に向いていないんですね。このとおり饒舌だし、自己主張も強い方だし。だからいつも訳書に長いあとがきを書いて、それで欲求不満を解消するわけです(笑)。
外国語学習と翻訳は、他者性に対する「寛容の学校」
──近ごろはGoogle翻訳も精度がかなり高まっていますが、AIが文学作品の翻訳をする日がやって来るのでしょうか。
堀:言語は単なるコミュニケーションの道具ではなく、積み重ねられた文化を担ったものです。というか、言語じたいが文化です。
例えば一口に「雨」と言っても、北ヨーロッパの雨と日本の雨ではまるっきり違う経験を抱えている。日本文学のなかに登場する「雨」にも、フランス文学や英文学に出てくる「雨」にも、それぞれの風土で昔から描かれてきた蓄積がチャージされています。
もちろん、雨をrainとかpluieとかに訳すのは間違いではない。でもそれらはある意味で「違うもの」なのだという意識を、文芸翻訳では常に持っていなければなりません。
外国語というのは、つまるところ他者の母語なんです。数学や物理には文化や国籍を超えた普遍的な正しさがありますが、言葉というのは、そういう科学とは違う。言語の規範は、究極的には、それを現に使っているネイティヴの人の感覚に依存しています。
いくら外国人から見て変だな、理屈が通らないな、と思うことがあっても、ふだんその言葉を母語として使っているネイティヴが「これが正しい運用だ」と言うなら、それをそのまま受け入れるしかない。
それが「他者をあるがままに認める」ということで、外国語学習と翻訳は、言うなれば、他者性に対する深い意味での「寛容の学校」なのです。
外国語というのは他者性を抱えたものです。母語が人間にとってこの上なく親密なものだとすれば、その反対のものと言ってもいい。無理やり押しつけられれば、強い反発を呼びます。
アゴタ・クリストフは21歳でハンガリーから亡命し、スイスで生き延びていくために学ばざるを得なくなったフランス語のことを「敵語」と言っています。自分のアイデンティティーを脅かし、自分の中の母語を殺していくものだったからです。
堀:一方で、私たちは母語を選べませんが、外国語を自ら選んで学び、それを習得しようとすることができます。アイデンティティーというものは完全に閉じたものではなく、外に開かれたものでもあるということです。
その意味で人間は、与えられたものと選び取るものの狭間に生きる存在です。とりわけ翻訳者は、母語と異言語の狭間での苦闘をメチエ(職業・流儀)とする存在です。
かつて手作業だった洗濯が洗濯機に取って代わられたように、より洗練された機械が実務翻訳をこなすようにはなるかもしれません。でも、別の文化圏で生じた作品、その文化でしか生まれ得なかったテクストを、日本語の中に再現する営みである文芸翻訳を、AIができるようになるとは思えません。