最新記事

BOOKS

『悪童日記』訳者・堀茂樹と「翻訳」の世界をのぞく──外国語に接することは「寛容の学校」

2020年2月4日(火)18時05分
Torus(トーラス)by ABEJA

堀:もちろん、努めて出さないようにしても、翻訳者の個性が出てしまうことはあります。同じ楽譜を演奏しても奏者によって全然違う音楽になるのと同じで、翻訳者によって作品の解釈(インタープリテーション)が違ってくることはあり得ます。

ただ、わざと自分を出そうとするのはだめ。心がけとしては、常に自制的、禁欲的でなければならないんです。

と言いつつ、実は私は性格的にあんまり翻訳に向いていないんですね。このとおり饒舌だし、自己主張も強い方だし。だからいつも訳書に長いあとがきを書いて、それで欲求不満を解消するわけです(笑)。

外国語学習と翻訳は、他者性に対する「寛容の学校」

Torus_hori8.jpg


──近ごろはGoogle翻訳も精度がかなり高まっていますが、AIが文学作品の翻訳をする日がやって来るのでしょうか。

堀:言語は単なるコミュニケーションの道具ではなく、積み重ねられた文化を担ったものです。というか、言語じたいが文化です。

例えば一口に「雨」と言っても、北ヨーロッパの雨と日本の雨ではまるっきり違う経験を抱えている。日本文学のなかに登場する「雨」にも、フランス文学や英文学に出てくる「雨」にも、それぞれの風土で昔から描かれてきた蓄積がチャージされています。

もちろん、雨をrainとかpluieとかに訳すのは間違いではない。でもそれらはある意味で「違うもの」なのだという意識を、文芸翻訳では常に持っていなければなりません。

外国語というのは、つまるところ他者の母語なんです。数学や物理には文化や国籍を超えた普遍的な正しさがありますが、言葉というのは、そういう科学とは違う。言語の規範は、究極的には、それを現に使っているネイティヴの人の感覚に依存しています。

いくら外国人から見て変だな、理屈が通らないな、と思うことがあっても、ふだんその言葉を母語として使っているネイティヴが「これが正しい運用だ」と言うなら、それをそのまま受け入れるしかない。

それが「他者をあるがままに認める」ということで、外国語学習と翻訳は、言うなれば、他者性に対する深い意味での「寛容の学校」なのです。

外国語というのは他者性を抱えたものです。母語が人間にとってこの上なく親密なものだとすれば、その反対のものと言ってもいい。無理やり押しつけられれば、強い反発を呼びます。

アゴタ・クリストフは21歳でハンガリーから亡命し、スイスで生き延びていくために学ばざるを得なくなったフランス語のことを「敵語」と言っています。自分のアイデンティティーを脅かし、自分の中の母語を殺していくものだったからです。

Torus_hori5.jpg


堀:一方で、私たちは母語を選べませんが、外国語を自ら選んで学び、それを習得しようとすることができます。アイデンティティーというものは完全に閉じたものではなく、外に開かれたものでもあるということです。

その意味で人間は、与えられたものと選び取るものの狭間に生きる存在です。とりわけ翻訳者は、母語と異言語の狭間での苦闘をメチエ(職業・流儀)とする存在です。

かつて手作業だった洗濯が洗濯機に取って代わられたように、より洗練された機械が実務翻訳をこなすようにはなるかもしれません。でも、別の文化圏で生じた作品、その文化でしか生まれ得なかったテクストを、日本語の中に再現する営みである文芸翻訳を、AIができるようになるとは思えません。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

仏、来年予算300億ユーロ超削減へ 財政赤字対GD

ビジネス

PayPayが12月にも米でIPO、時価総額3兆円

ビジネス

英議員、中ロなどのスパイの標的 英情報機関が警告

ワールド

ロ潜水艦が仏沖で緊急浮上、燃料漏れとの情報 黒海艦
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:中国EVと未来戦争
特集:中国EVと未来戦争
2025年10月14日号(10/ 7発売)

バッテリーやセンサーなど電気自動車の技術で今や世界をリードする中国が、戦争でもアメリカに勝つ日

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    お腹の脂肪を減らす「8つのヒント」とは?...食事以外の「2つの隠れた要因」が代謝を狂わせていた
  • 2
    中国人が便利な「調理済み食品」を嫌うトホホな理由とは?
  • 3
    メーガン妃の動画が「無神経」すぎる...ダイアナ妃をめぐる大論争に発展
  • 4
    車道を一人「さまよう男児」、発見した運転手の「勇…
  • 5
    かばんの中身を見れば一発でわかる!「認知症になり…
  • 6
    筋肉が目覚める「6つの動作」とは?...スピードを制…
  • 7
    連立離脱の公明党が高市自民党に感じた「かつてない…
  • 8
    1歳の息子の様子が「何かおかしい...」 母親が動画を…
  • 9
    あなたの言葉遣い、「AI語」になっていませんか?...…
  • 10
    ウィリアムとキャサリン、結婚前の「最高すぎる関係…
  • 1
    かばんの中身を見れば一発でわかる!「認知症になりやすい人」が持ち歩く5つのアイテム
  • 2
    悲しみで8年間「羽をむしり続けた」オウム...新たな飼い主との「イケイケなダンス」姿に涙と感動の声
  • 3
    お腹の脂肪を減らす「8つのヒント」とは?...食事以外の「2つの隠れた要因」が代謝を狂わせていた
  • 4
    【クイズ】日本人が唯一「受賞していない」ノーベル…
  • 5
    中国人が便利な「調理済み食品」を嫌うトホホな理由…
  • 6
    ロシア「影の船団」が動く──拿捕されたタンカーが示…
  • 7
    ベゾス妻 vs C・ロナウド婚約者、バチバチ「指輪対決…
  • 8
    時代に逆行するトランプのエネルギー政策が、アメリ…
  • 9
    ウクライナの英雄、ロシアの難敵──アゾフ旅団はなぜ…
  • 10
    トイレ練習中の2歳の娘が「被疑者」に...検察官の女…
  • 1
    「最悪」「悪夢だ」 飛行機内で眠っていた女性が撮影...目覚めた時の「信じがたい光景」に驚きの声
  • 2
    かばんの中身を見れば一発でわかる!「認知症になりやすい人」が持ち歩く5つのアイテム
  • 3
    「大谷翔平の唯一の欠点は...」ドジャース・ロバーツ監督が明かすプレーオフ戦略、監督の意外な「日本的な一面」とは?
  • 4
    カミラ王妃のキャサリン妃への「いら立ち」が話題に.…
  • 5
    増加する「子どもを外注」する親たち...ネオ・ネグレ…
  • 6
    悲しみで8年間「羽をむしり続けた」オウム...新たな…
  • 7
    バフェット指数が異常値──アメリカ株に「数世代で最…
  • 8
    「日本の高齢化率は世界2位」→ダントツの1位は超意外…
  • 9
    お腹の脂肪を減らす「8つのヒント」とは?...食事以…
  • 10
    数千円で買った中古PCが「宝箱」だった...起動して分…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中