『悪童日記』訳者・堀茂樹と「翻訳」の世界をのぞく──外国語に接することは「寛容の学校」
堀:翌89年、日本に帰ってから三つの出版社に『悪童日記』の企画を持ち込みました。運よくそのうちの1社の文芸編集者が本気で「本にします!」と言ってくれ、出版が決まりました。
その段階で初めて、翻訳とはなんぞや、ということを根本的に考えることになった。というか、考えざるを得なくなりました。そして、全編を一から訳し直すことに決めました。
──既に訳した原稿があったのに、ですか?
堀:最初の訳文は、直訳というのとは違うけど、原文重視がマニアック過ぎるというか、フランス語の字面に密着しすぎたものでした。いわゆる「直訳」は、辞書的に言葉を別の言語に置き換えているだけで、まったく「忠実な訳」とは言えません。
では忠実な訳とは何かと言えば、ひとつひとつの単語や表現レベルで忠実ということではなくて、例えば『悪童日記』なら、そのフランス語のテクスト全体が含んでいる意味作用やイメージ喚起を、日本語の世界で起こすことに成功しているもののことです。
センテンス単位で「これは名訳だ」とか評価することには、まったく意味がない。
ちょっと分かりづらいかもしれませんが、本居宣長の言葉に「姿は似せがたく、意は似せやすし」というものがあります。翻訳はあくまで「模写」で、決してオリジナルにはなれません。でも、特に文芸翻訳は、テクストの意味だけでなく、姿まで似るように工夫しなければならない。
それは、原作者がもし日本語で書いたらこう書くだろうという訳文を目指すということです。もっと厳密に言えば、原語のネイティヴがその本を読んでいる時に頭の中に意味やイメージが流れていきますね、その体験と近似的な体験を日本語の読者にもしてもらうように仕組むということです。
──翻訳者は、読者にとっては国外の作品のメディエーター(仲介者)でもあり、責任重大ですね。それにしても、姿を似せるというのは、一番難しい作業です。
堀:そうなんです。身も蓋もないですが、これは結局、訳者の器量というか、読書歴や生活経験、人生といった全人格的なものに依っていると言うほかありません。
それでいて、矛盾するようですが、翻訳者は自分を出してはいけない。自分を透明にしなければならないんです。翻訳者はあくまで黒子であり、読者をあちらの言語体系からこちらの言語体系へと橋渡しする役、つまり渡し船の渡守の役割に徹しなければならない。
いわゆる「超訳」は、訳者の傲慢の産物です。上から目線でテキストを素材のようにこね回し、僭越にもわがまま自分の思うように日本語をでっち上げてしまっている。脇役でなければならないのに、自分が主役になろうとしてしまっている。超訳も、直訳同様、忠実な訳とは言えません。