無宗教のアメリカ人記者がイスラム教に心の平穏を見出すまで
コーランでは聖母マリアが「マルヤム」として登場し、アクラムはマルヤムのことを「『アッラーのために』自らたいへんな役割を負った」と説明する。そしてイエスは神の子ではなく、だから「十字架にも掛けられておらず、生きたまま天にあげられた」と考えられている。
挙げていけばきりがないが、こうして著者はアクラムとの交流を通じ、いままで明かされてこなかったイスラムの、そしてコーランの"真実"と直面していく。つまりここに描かれているのは、そのプロセスなのだ。しかもそれらはトピックスとして劇的に、感情的に語られるのではなく、あくまで淡々と、客観的に示されていくことになる。
とはいえ、宗教についての考え方は人それぞれだし、非常にセンシティブな問題でもある。私もコーランは読んだことがないし、そもそもイスラム教やコーランについて非信者としての立場から完全に理解しようなどということ自体がナンセンスであることも理解している。
しかし、だからこそ本書は、これまでの無知や偏見について考えなおす余地を読者に与えるだろう。そしてそれは、なんらかの平穏な感情を与えてくれることになるかもしれない。それは、著者にしても同じだということが、終章を読むとわかる。
私は改宗しなかった。しかし、(中略)コーランを勉強したこの一年は、私に数多くの恩寵の時をもたらしてくれた。コーランを読みながら、「諸天と地とその間のものの主にして、諸々の(光の)昇る処の主」(コーラン第三七章五節)の姿を思い浮かべるとき、私は自分という存在の小ささを思い、そのことに慰められた。信者ではなくとも、コーランの授業は私にとって穏やかな入り江のようで、私はそこに日常生活からの避難所を見出した。(398~399ページより)
これはあくまで個人的な感情だが、「コーランの授業は私にとって穏やかな入り江」というフレーズを目にしたとき、私自身のなかにも"穏やかななにか"が通りすぎたような気がした。とはいえ本書を読了したからといって、イスラム教やコーランを理解できたなどとははなから考えていない。しかし「信者ではなくとも」という部分が強いインパクトを放つ上記の引用部分には、イスラム教、もしかしたらすべての宗教に対して考えるべき大切なポイントが隠れているようにも感じたのだ。
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