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東北の人々にとって「語り」が意味するもの
2つ目は、小野氏の語る「自身の人生」や「民話の語り部の人生」が、各章で取り上げられている民話そのものと深く結びついているという点です。例えば、最終の17章にある「ガダルカナル島の飢餓から生還した男性」が心の支えにしていた民話の記憶、「病に苦しむ母親が娘に語った」あまりにもダークな民話のエピソードなどは、その深さと重さにおいて、民話の紹介や評論といったレベルをはるかに超えています。
3つ目は、震災から9年という年月の実感です。本書には、震災に関する直接的な言及はほとんどありません。多くの「採訪」は、震災のはるか以前になされたものです。また多くの語り部は既に他界されています。それぞれの生々しい逸話について、震災後の時間の中で小野氏は昔のノートを辿りながら、丁寧に文章に手を入れていかれたのでしょう。私の勝手な想像ですが、小野氏が向かい合われた震災とその後の9年という時間が、この大冊として結晶したのではないかと思われるのです。
本書を通じて分かったのは、民話というのは高度な抽象化だということです。災害や病苦、貧困、別離、死別といった悲劇を背負う時、人は個別の悲劇に向かい合ってしまうとその事実の重さに潰されてしまうことがあります。そんな時には、例えば思想という言葉を使って一般化することで、何とか耐えようとする人がいます。また、宗教がもたらす世界観を使って耐える人もいます。
同じように、民話というのは悲劇を一種の寓話、つまり比喩を使ったストーリーとして展開することで、抽象化する知恵なのだと思います。悲劇を、ユーモラスに誇張したり、擬人化した動物の話にしたりするというのは、痛みからの逃避や退行ではないのです。そうではなくて、物語にして「語る」というのは、抽象化・一般化という高度な文化的営みであり、東北の人々は、そのようにして痛みを受け止め、それに耐え、そして乗り越えて来ているのだと思います。
本書は17の章に「最終章にかえて」を加えた各章に、それぞれに独立した民話が紹介されています。それぞれに十分に深みを持った民話ですが、それが語り手の人生と、さらに聞き手であり記録者である小野氏の人生に照射されることで、別の光をにじませています。そのうえで本書全体としては震災後の9年という歳月を感じさせつつ、東北の人々が昔から紡いできた「語り」という抽象化・一般化のカルチャー、その深さへと読者を連れて行ってくれるのです。
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