コラム

イラン映画界の巨星、パナヒ監督の『熊は、いない』が描く社会の裏側とは?

2023年09月13日(水)10時30分

カメラの介在と真実の探求

パナヒは、彼に部屋を貸している村人のガンバルが、川で行われる村の婚約の儀式を見に行くのを知って興味を覚え、カメラを渡して撮影してくるように頼む。ところが、戻ってきたガンバルの前でパナヒが動画を再生してみると、おかしなことになっている。ガンバルは、スタートと停止を逆に操作していたのだ。そこでパナヒは、「撮るべきときに止めて、止めるべきときに撮ったな」と語る。

ところがそこには、図らずも村人たちがパナヒについて語り合う会話が記録されている。「あの人はスパイかも」とか、「密出国する気かもしれないぞ」と語る村人たちに、ガンバルは、「僕は逮捕される? 何とかしないと」、「まさか、あの高級車を捨てていくはずがない」、「村長の紹介だぞ」と答えながら、不安を隠せない。

村の疑念とパナヒの立場

村人たちは、「パソコンで一日中誰かと話してる」、「1週間、部屋に籠ってる」、「きっとトラブルを起こすぞ」とも語る。彼らはパナヒがリモートで映画を撮っていることを知らないので、その行動が怪しく見える。冒頭で電波を捕えるために屋根に上ろうとしたパナヒは、ガンバルから覗いていると思われると止められるが、村人たちの方は彼を密かに見ている。

パナヒは本作で、単に社会や個人の裏と表を描くのではなく、そこに巧みにカメラを介在させて炙り出そうとする。本作は、ある場面や出来事が撮影された(撮影されなかった)ことをめぐって展開していく。『人生タクシー』では、パナヒが運転するタクシーに様々な人物が乗車することで社会が見えてきたが、本作もそれに通じるところがある。

村人の言葉にあったように、パナヒは部屋に籠り、自ら動くことはほとんどないが、登場人物たちの関係にカメラが介在することで彼が知らないところで物事が動き、向こうから登場人物たちが彼のもとにやってくる。

パナヒが男女の密会を撮影したと疑われることには、まさにカメラが介在している。その結果、パナヒのもとに、ゴザルの結婚相手の親戚や村長などがやってきて、写真を要求する。パナヒが撮ってないと否定すると、証人の子供まで連れてくる。うんざりしたパナヒがメモリーカードそのものを渡しても、彼らは納得しない。パナヒは宣誓所に行って、神に誓うはめになる。

村人たちは、形だけで丸く収めることしか頭にない。ある村人は宣誓所に向かうパナヒに、和解のためなら嘘の証言をしたって構わないというようなことを語る。しかし、そんな揉め事の間に、当事者はないがしろにされ、追いつめられていく。

パナヒが撮影しているドキュメンタリードラマにも同じことがいえる。その伏線といえるものは、早い段階から見え隠れしている。たとえば、回線が切れて連絡がつかなくなったパナヒを心配した助監督のレザが、その夜にパスポートで検問所を通って村までやってくることだ。レザは、村に滞在するパナヒが国境を越えるつもりなのではと考え、密輸人に顔が利く知人に仲介を頼み、国境まで安全に行ける手はずを整えていた。

パナヒは国境から撮影が行われている街の灯りを眺めるが、そんな行動が彼の立場を悪くする。ガンバルは、パナヒの車に着いた土埃から彼が国境に行ったことをすぐに見抜く。なぜ土埃だけでそれがわかるかといえば、村人たちが国境に深く関わっているからだ。彼らは、パナヒが国境警察にマークされることを避け、形だけで丸く収めなければならなくなる。

そんな国境をめぐる闇の領域は、ドキュメンタリードラマにも影響を及ぼす。バクティアールがパスポートを手に入れ、ザラと脱出できるかどうかは手配師にかかっている。だが、カメラが追いかけようとしても手配師はそれを許さず、バクティアールとどこかに消える。そしていつしかドキュメンタリードラマは、現実から乖離した、問題を形だけで丸く収めようとするような物語になっている。

劇中のドキュメンタリードラマも含め、本作でなかなか見えてこないのは、ザラやゴザルという女性たちの実像や本音だが、そこに光があたるときにはすべてが手遅れになっている。

プロフィール

大場正明

評論家。
1957年、神奈川県生まれ。中央大学法学部卒。「CDジャーナル」、「宝島」、「キネマ旬報」などに寄稿。「週刊朝日」の映画星取表を担当中。著書・編著書は『サバービアの憂鬱——アメリカン・ファミリーの光と影』(東京書籍)、『CineLesson15 アメリカ映画主義』(フィルムアート社)、『90年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)など。趣味は登山、温泉・霊場巡り、写真。
ホームページ/ブログは、“crisscross”“楽土慢遊”“Into the Wild 2.0”

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