コラム

イスラエル人とは何かを掘り下げる、『6月0日 アイヒマンが処刑された日』

2023年09月06日(水)18時45分

彼が単にモロッコのスペイン語を話す地域からやってきただけなのか、あるいはイベリア半島をルーツとするセファルディムの文化と深い関わりを持っているのかは定かでないが、明らかにダヴィッドの立場とは一線を画す人物に設定されている。

そして3人目の主人公が、イスラエル警察の捜査官ミハだ。前半では彼の立場や行動は間接的にしか描かれない。本作では、アイヒマンの裁判そのものはまったく描かれないが、ラムラ刑務所で顔を合わせたミハとハイムの会話から、ミハはアイヒマンの取調官として、ハイムは護衛として裁判に臨んでいたことがわかる。ハイムはそのときのことを振り返り、法廷で自らのホロコースト体験を証言したミハを"真の英雄"と称える。そんな会話から察せられるように、ミハは大戦後にイスラエルにやってきたアシュケナジムなのだ。

ダヴィッドとハイムとミハが、それぞれに異なる集団を代表しているだけであれば、それは図式に過ぎない。しかし本作では、アイヒマンの運命が彼らそれぞれにとって大きな分岐点となる。

ミハとダヴィッドの分岐点はある意味で対照的といえる。ミハは前半では、アシュケナジムの一集団を代表しているだけのように見えるが、後半でホロコースト以外にも心に傷を負っていることが明らかになる。ミハがイスラエルにやってきたとき、管理官は彼の体験を作り話と結論づけた。それ以来、彼は過去について口を閉ざすようになっていた。つまり裁判は、彼が歴史との繋がりを取り戻す機会となる。

一方、焼却炉作りに加わることになったダヴィッドは、限られた時間のなかで重要な役割を果たす。彼がいなければ火葬は失敗していたかもしれない。それほど深く歴史に関わっていたが、極秘プロジェクトだったために、事実は封印されてしまうのだ。

アイヒマンにまつわる歴史からユダヤ人の多様性へ

では、ハイムの場合はどうか。アイヒマンを警護する彼が、裁判などでホロコーストについて知れば知るほど、重圧がのしかかる。常に神経を尖らせ、疲労が滲む彼は、アイヒマンからも心配される。そして、アイヒマンの要望で床屋が呼ばれる場面のやりとりなどは、滑稽ですらある。

ハイムは床屋に「東欧系ユダヤ人にはナチを警備させない。ホロコーストの生存者と家族は近寄らせない。中東と北アフリカだけ。俺は見た通りモロッコ出身だ」と語る。彼は警護のためにそんな線引きを余儀なくされ、疑心暗鬼にとらわれている。床屋は自分がトルコ系だと主張するが、ハイムにはその顔がヨーロッパ人に見えるのが気になる。床屋がハサミを入れるときには、一回ごとに許可を求めるように命じるが、ハサミを見つめるうちに、床屋の腕に識別番号が刻まれている妄想にとらわれ、銃を抜く始末なのだ。

パルトロウ監督は、アイヒマンにまつわる歴史からユダヤ人の多様性へと視野を広げ、独自の視点でイスラエル人とは何かを掘り下げている。

プロフィール

大場正明

評論家。
1957年、神奈川県生まれ。中央大学法学部卒。「CDジャーナル」、「宝島」、「キネマ旬報」などに寄稿。「週刊朝日」の映画星取表を担当中。著書・編著書は『サバービアの憂鬱——アメリカン・ファミリーの光と影』(東京書籍)、『CineLesson15 アメリカ映画主義』(フィルムアート社)、『90年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)など。趣味は登山、温泉・霊場巡り、写真。
ホームページ/ブログは、“crisscross”“楽土慢遊”“Into the Wild 2.0”

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

トランプ氏とゼレンスキー氏が「非常に生産的な」協議

ワールド

ローマ教皇の葬儀、20万人が最後の別れ トランプ氏

ビジネス

豊田織機が非上場化を検討、トヨタやグループ企業が出

ビジネス

日産、武漢工場の生産25年度中にも終了 中国事業の
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:独占取材 カンボジア国際詐欺
特集:独占取材 カンボジア国際詐欺
2025年4月29日号(4/22発売)

タイ・ミャンマーでの大摘発を経て焦点はカンボジアへ。政府と癒着した犯罪の巣窟に日本人の影

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 2
    私の「舌」を見た医師は、すぐ「癌」を疑った...「口の中」を公開した女性、命を救ったものとは?
  • 3
    中国で「ネズミ人間」が増殖中...その驚きの正体とは? いずれ中国共産党を脅かす可能性も
  • 4
    日本史上初めての中国人の大量移住が始まる
  • 5
    使うほど脱炭素に貢献?...日建ハウジングシステムが…
  • 6
    ロシア武器庫が爆発、巨大な火の玉が吹き上がる...ロ…
  • 7
    足の爪に発見した「異変」、実は「癌」だった...怪我…
  • 8
    健康寿命を伸ばすカギは「人体最大の器官」にあった.…
  • 9
    パニック発作の原因の多くは「ガス」だった...「ビタ…
  • 10
    市販薬が一部の「がんの転移」を防ぐ可能性【最新研…
  • 1
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 2
    「スケールが違う」天の川にそっくりな銀河、宇宙初期に発見される
  • 3
    【クイズ】「地球の肺」と呼ばれる場所はどこ?
  • 4
    「生はちみつ」と「純粋はちみつ」は何が違うのか?.…
  • 5
    女性職員を毎日「ランチに誘う」...90歳の男性ボラン…
  • 6
    教皇死去を喜ぶトランプ派議員「神の手が悪を打ち負…
  • 7
    自宅の天井から「謎の物体」が...「これは何?」と投…
  • 8
    トランプ政権はナチスと類似?――「独裁者はまず大学…
  • 9
    健康寿命は延ばせる...認知症「14のリスク要因」とは…
  • 10
    【クイズ】世界で最もヒットした「日本のアニメ映画…
  • 1
    【話題の写真】高速列車で前席のカップルが「最悪の行為」に及ぶ...インド人男性の撮影した「衝撃写真」にネット震撼【画像】
  • 2
    健康寿命を伸ばすカギは「人体最大の器官」にあった...糖尿病を予防し、がんと闘う効果にも期待が
  • 3
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い国はどこ?
  • 4
    【心が疲れたとき】メンタルが一瞬で “最…
  • 5
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」では…
  • 6
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる…
  • 7
    間食はなぜ「ナッツ一択」なのか?...がん・心疾患・抜…
  • 8
    自らの醜悪さを晒すだけ...ジブリ風AIイラストに「大…
  • 9
    北朝鮮兵の親たち、息子の「ロシア送り」を阻止する…
  • 10
    【クイズ】世界で最も「半導体の工場」が多い国どこ…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story