コラム

すべてがチェスの対局に集約されていく『ナチスに仕掛けたチェスゲーム』

2023年07月20日(木)13時00分

想像の世界でさらにチェスにのめり込む

そこで、最初の映画化である『Schachnovelle』では、それがどう描かれているかを頭に入れておくと、本作のアプローチがより明確になるだろう。

この1960年版では、原作のB博士がフォン・バジールになり、港に着いた彼が客船に乗り込み、ブエノスアイレスではなくアメリカに向けて出航するところから始まる。そこでバジールはチェスの世界チャンピオンに出会い、次第に現在と過去が交錯していく。

原作では、ナチスはほとんど集団として描かれていたが、1960年版にはゲシュタポのベルガーという人物が登場し、バジールを精神的に追い詰める。チェスの手引書は、そのベルガーに発見されて取り上げられ、以後、バジールは想像の世界でさらにチェスにのめり込んでいく。

バジールは船室で落ち着くことができない。それは、狭い船室がかつて監禁されていたホテルの部屋を思い出させるからだとわかる。客船とホテルが結びつくように、ベルガーと世界チャンピオンの存在もさり気なく結びつけられている。たとえば、ふたりは同じようにシガレットホルダーでタバコを吸い、それぞれに調書や盤面のうえに灰を落とす場面が盛り込まれている。

しかし、この1960年版では、世界チャンピオンの造形が、原作ほど明確ではなく半端であるため、バジールの対極にある人物には見えない。それが対局にも現れる。すべてがチェスに集約されるのではなく、バジールの別な感情が露わになる。彼は、ホテルでの尋問で自分が混乱しているうちに秘密を漏らしたのではないかという疑念や不安に苛まれ、その真相へと視点がズレていってしまうのだ。

それでは、シュテルツェル監督の本作はどうか。その物語はある段階まで1960年版をヒントにしたような展開を見せる。主人公のヨーゼフ・バルトークが、アメリカに向かう豪華客船に乗り込むところから始まり、彼のなかにおぞましい体験が甦ってくる。彼は、貴族の莫大な資産を管理する公証人として優雅な暮らしを送っていたが、ゲシュタポのベームが、彼をメトロポール・ホテルの一室に監禁して精神的に追い詰め、預金番号を吐かせようとする。本作でもベームがチェスの手引書を発見して取り上げ、バルトークは想像の世界でチェスにのめり込む。

現在と過去、現実と幻想の境界が揺らぎだすドラマ

しかし本作の場合は、1960年版とは異なり、伏線がちりばめられている。冒頭には、「白のビショップをe4へ」とか「黒のクイーン f5へ」といった囁き声がつづき、やがて港へ向かう車に乗ったバルトークの頭のなかでそれが響いていることがわかる。バルトークは港で妻のアンナと再会し、いっしょに船に乗り込む。妻は「ヨーゼフ」と彼の名前を読んだが、バルトークの旅券の名前はなぜか「マックス・フォン・ルーヴェン」になっている。

バルトークが対局することになる世界チャンピオンの造形も明確だ。身なりなどまったく気にせず、時間があれば、甲板に用意した巨大な盤面や駒と向き合い、チェスのことしか頭にない。マネージャーは、そんな彼のチェスを、「冷徹な機械のようだった」とバルトークに語る。

本作ではすべての要素が、チェスの対局に集約されていく。ゲシュタポのベームは、チェスの魅力を、「相手のエゴを砕く瞬間だ」と語る。バルトークと世界チャンピオンの対局をお膳立てする客船のオーナーも、チェスの本に相手のエゴを砕くのが醍醐味だと書いてあったというようなことを語る。

次第に現在と過去、現実と幻想の境界が揺らぎだすドラマでは、そんな駆け引きが繰り広げられている。本作は、原作の核心部分に独自の大胆な解釈を加え、迷宮を作り上げている。

プロフィール

大場正明

評論家。
1957年、神奈川県生まれ。中央大学法学部卒。「CDジャーナル」、「宝島」、「キネマ旬報」などに寄稿。「週刊朝日」の映画星取表を担当中。著書・編著書は『サバービアの憂鬱——アメリカン・ファミリーの光と影』(東京書籍)、『CineLesson15 アメリカ映画主義』(フィルムアート社)、『90年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)など。趣味は登山、温泉・霊場巡り、写真。
ホームページ/ブログは、“crisscross”“楽土慢遊”“Into the Wild 2.0”

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