コラム

ウクライナ東部、マレーシア航空17便撃墜事件と戦争のはじまりを描く『世界が引き裂かれる時』

2023年06月16日(金)11時28分

たとえば、明け方に誤射で家の壁を破壊されたとき、トリクはイルカを病院に連れていく準備をしていた。ところが、その後、サーニャが勝手にトリクの車を持ち出し、親ロシア派武装勢力が使っていることがわかる。トリクがサーニャに文句を言いながらその車が戻るのを待つ場面では、背後に地対空ミサイルの移動式発射台と思われるものが移動していく様子が見える。

そして事件後、トリクの前に広がるひまわり畑は、最初はなんの変哲もない風景に見えるが、カメラがパンしていくと、列をつくってローラー作戦で捜索する人々の姿、さらに回収されて袋に収められた遺体が整然と並ぶ光景が目に入る。トリクは、事件の背景やその後を間近で目にしていることになる。

自然との関係によってイメージが大きく変わる

しかし筆者がここで特に注目したいのは、それらとは違う効果であり、ふたつの場面が印象に残る。

ひとつは、イルカの弟ヤリクが突然、家に現れ、急かすように姉を連れ出そうとする場面だ。そのとき外でなにかが激しく爆発する音が響き渡り、ふたりは家の奥に避難するように見えるが、カメラは彼らとは反対の方向にゆっくりとパンして、穴の向こうに広がる平原を映し出していく。そして穴を過ぎ、再び屋内になると、窓の向こうに、彼らが走って外にある地下室の入口に向かう姿が見える。

この場面では、カメラが登場人物たちを追わないだけでなく、慌てて避難しようとする彼らがたてる物音、気配といったものも消し去られ、音楽だけになるので、自然が際立つ。

もうひとつは、やはり穴の向こうに広がる平原を背景にして、トリクとヤリクが、穴を塞ぐためにレンガを積む場面だ。激しくいがみ合うふたりが取っ組み合いを始めると、イルカは彼らに熱い湯を浴びせ、水タンクを手にして正面に広がる平原を突っ切っていく。

後から振り返ると、画面から消えたトリクとヤリクの間にはその後に、彼らの運命を左右するようなことが起こっているが、それは想像に委ねられ、カメラはイルカが遠方まで行って戻ってくるまでずっと平原をとらえている。そこで際立つのは、イルカの存在ではなく、巨大な雲の影が平原をよぎっていくような風景なのだ。

幻想に囚われた人間たちが自然を破壊して奪う悲劇

本作では、自然が中心に据えられ、自然との関係によってイメージが大きく変わる。イルカは畑で作物を収穫し、炊事や家畜のために給水塔や井戸から水を汲み、マヤという名前の牛から乳を搾る。しかし、そんな生活が破壊されていく。イルカと牛が親密な関係にあることはすぐにわかるが、対立を避けたいトリクは、サーニャの助言を受け入れ、牛を殺して解体し、親ロシア派武装勢力に肉を差し出す。井戸の水が異臭を放つことに気づいたイルカは、飲める水を探さなければならない。

自然を中心に据えることで、イルカを取り巻く自然に反するものは、冷酷な人間も武器も制服も、撃墜された機体の巨大な破片も、すべてが、リアリズムのドラマ以上にいびつなものに見えてくる。ゴルバチ監督は、あえて戦闘などを描かず、「クロンダイク」というタイトルをつけることで、この戦争を19世紀のカナダで起こったゴールドラッシュに重ね合わせているが、確かに本作からは、幻想に囚われた人間たちが、土地に群がり、自然を破壊して奪う悲劇が浮かび上がってくる。

プロフィール

大場正明

評論家。
1957年、神奈川県生まれ。中央大学法学部卒。「CDジャーナル」、「宝島」、「キネマ旬報」などに寄稿。「週刊朝日」の映画星取表を担当中。著書・編著書は『サバービアの憂鬱——アメリカン・ファミリーの光と影』(東京書籍)、『CineLesson15 アメリカ映画主義』(フィルムアート社)、『90年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)など。趣味は登山、温泉・霊場巡り、写真。
ホームページ/ブログは、“crisscross”“楽土慢遊”“Into the Wild 2.0”

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

ノーベル平和賞マチャド氏、授賞式間に合わず 「自由

ワールド

ベネズエラ沖の麻薬船攻撃、米国民の約半数が反対=世

ワールド

韓国大統領、宗教団体と政治家の関係巡り調査指示

ビジネス

エアバス、受注数で6年ぶりボーイング下回る可能性=
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:ジョン・レノン暗殺の真実
特集:ジョン・レノン暗殺の真実
2025年12月16日号(12/ 9発売)

45年前、「20世紀のアイコン」に銃弾を浴びせた男が日本人ジャーナリストに刑務所で語った動機とは

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    日本の「クマ問題」、ドイツの「問題クマ」比較...だから日本では解決が遠い
  • 2
    中国軍機の「レーダー照射」は敵対的と、元イタリア空軍の専門家。NATO軍のプロフェッショナルな対応と大違い
  • 3
    【クイズ】アジアで唯一...「世界の観光都市ランキング」でトップ5に入ったのはどこ?
  • 4
    トランプの面目丸つぶれ...タイ・カンボジアで戦線拡…
  • 5
    中国の著名エコノミストが警告、過度の景気刺激が「…
  • 6
    死者は900人超、被災者は数百万人...アジア各地を襲…
  • 7
    「韓国のアマゾン」クーパン、国民の6割相当の大規模情…
  • 8
    キャサリン妃を睨む「嫉妬の目」の主はメーガン妃...…
  • 9
    【銘柄】オリエンタルランドが急落...日中対立が株価…
  • 10
    イギリスは「監視」、日本は「記録」...防犯カメラの…
  • 1
    日本人には「当たり前」? 外国人が富士山で目にした「信じられない」光景、海外で大きな話題に
  • 2
    【銘柄】オリエンタルランドが急落...日中対立が株価に与える影響と、サンリオ自社株買いの狙い
  • 3
    日本の「クマ問題」、ドイツの「問題クマ」比較...だから日本では解決が遠い
  • 4
    健康長寿の鍵は「慢性炎症」にある...「免疫の掃除」…
  • 5
    兵士の「戦死」で大儲けする女たち...ロシア社会を揺…
  • 6
    キャサリン妃を睨む「嫉妬の目」の主はメーガン妃...…
  • 7
    ホテルの部屋に残っていた「嫌すぎる行為」の証拠...…
  • 8
    戦争中に青年期を過ごした世代の男性は、終戦時56%…
  • 9
    イスラエル軍幹部が人生を賭けた内部告発...沈黙させ…
  • 10
    【クイズ】アルコール依存症の人の割合が「最も高い…
  • 1
    東京がニューヨークを上回り「世界最大の経済都市」に...日本からは、もう1都市圏がトップ10入り
  • 2
    一瞬にして「巨大な橋が消えた」...中国・「完成直後」の橋が崩落する瞬間を捉えた「衝撃映像」に広がる疑念
  • 3
    高速で回転しながら「地上に落下」...トルコの軍用輸送機「C-130」謎の墜落を捉えた「衝撃映像」が拡散
  • 4
    日本人には「当たり前」? 外国人が富士山で目にした…
  • 5
    「999段の階段」を落下...中国・自動車メーカーがPR…
  • 6
    まるで老人...ロシア初の「AIヒト型ロボット」がお披…
  • 7
    「髪形がおかしい...」実写版『モアナ』予告編に批判…
  • 8
    【銘柄】オリエンタルランドが急落...日中対立が株価…
  • 9
    日本の「クマ問題」、ドイツの「問題クマ」比較...だ…
  • 10
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるよ…
トランプ2.0記事まとめ
Real
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story