ドキュメンタリーの名匠が描くイラク、シリア、クルディスタンの国境『国境の夜想曲』
ジャンフランコ・ロージ監督『国境の夜想曲』
<ジャンフランコ・ロージ監督が3年以上かけて巡ったイラク、シリア、レバノン、クルディスタンの国境地帯を舞台に、そこに生きる人々の姿が描き出される>
以前コラムで取り上げたジャンフランコ・ロージ監督の『海は燃えている〜イタリア最南端の小さな島〜』(16)では、ランペドゥーサ島を舞台に、島民の生活と中東やアフリカから命懸けでそこにたどり着く難民や移民の姿が描き出された。
それに続く新作『国境の夜想曲』では、ロージが3年以上かけて巡ったイラク、シリア、レバノン、クルディスタンの国境地帯を舞台に、そこに生きる人々の姿が描き出される。その舞台は、前作の小さな島とは比べ物にならないくらい広く、世代やルーツが異なる様々な人々が暮らしている。
既成の境界とは違う空間を切り拓く
ロージはそれをどのようにしてひとつの世界にまとめ上げているのか。プレスには彼の以下のようなコメントがある。
「この映画の舞台は国境ですが、私は国境という認識を無効にしたいと思いました。なぜなら、国境とは政治に応じて再規定されるものだからです」
本作には、息子の命が奪われたかつての刑務所を訪れる母親、ISIS(イスラム国)に蹂躙され故郷を奪われた子供たち、ISISに連れ去られた娘からの音声メッセージを聞く母親、精神病院でセラピーとして行われる演劇の稽古をする患者たち、不在の父親に代わって猟をしたり、ハンターのガイドをして家族を支える少年など、様々な人物が登場する。ロージは、インタビューやナレーション、テロップなどを一切使わないので、彼らがそれぞれに国境地帯のどこで暮らし、どんな事情を抱えているのかは、はっきりとはわからない。
これはかなり大胆な試みのようにも見えるが、ロージの過去作を振り返ると、彼の独自の感性に裏打ちされた必然的なアプローチであることがわかるだろう。彼は、対象として選んだ地域に溶け込み、そこに生きる人々と時間をかけて信頼関係を築き、彼らから物語を引き出していく。さらに、「環」を描くように人と人を結びつけ、既成の境界とは違う空間を切り拓く。
「環」を描くように人と人を結びつける
最も分かりやすいのが、前々作の『ローマ環状線、めぐりゆく人生たち』(13)だろう。そこには、ローマを取り巻く大動脈「環状線GRA」の周辺に生きる人々の姿が描き出されているが、ロージは、その地域の生活をジャーナリスティックに掘り下げようとしているわけではない。
ドキュメンタリーとしてありきたりなテーマを設定しても、ロージが出会った人々、没落貴族や救急隊員、ウナギ漁師、植物学者、トランスジェンダーの車上生活者が結びつくことなどあり得ない。彼はある意味で、環状線のイメージを利用し、環を描くようにして切り拓かれる空間の象徴にし、そうした人々が結びつくような世界を作り上げている。
前作の『海は燃えている』からも、舞台となる島とは違う独自の環が浮かび上がる。以前とは違い、移民・難民との接触が島から海上へと移行していたため、ロージは島に住むだけでなく、海上で任務にあたるイタリア海軍哨戒艇で一か月を過ごし、島民の日常、海上での救助作業、島の検査所に収容された移民・難民の生活などをもとに環を形作っていく。
その環には、島と海をめぐってあるイメージを喚起するようなエピソードが盛り込まれている。そのイメージは、映画の原題である「Fuocoammare(海の炎)」とも関係がある。原題は曲名からとられていて、その曲は、第二次大戦中に港に停泊していた艦船が連合軍に爆撃され、深夜に海が真っ赤に燃え上がり、漁師が夜に海に出るのを恐れたという、島民に語り継がれる逸話から生まれた。映画では、主人公ともいえる島民の少年に、彼の祖母が戦時中の逸話を語り、別の島民がDJにこの曲をリクエストする。そんな逸話が喚起するイメージが、現在の状況とも結びつき、日常と非日常が隣り合わせにあるひとつの世界にまとめ上げられている。
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