コラム

老人ホームに潜入調査、人生模様浮かび上がるドキュメンタリー『83歳のやさしいスパイ』

2021年07月07日(水)12時00分

アカデミー賞の長編ドキュメンタリー部門にノミネートされた『83歳のやさしいスパイ』(c)2021 Dogwoof Ltd - All Rights Reserved

<老人ホームの内定のため入居者として潜入した83歳の男性。ホームの入居者たちのさまざまな人生模様が浮かび上がる様子を描いたドキュメンタリー>

第93回アカデミー賞の長編ドキュメンタリー部門にノミネートされた南米チリ出身の若手女性監督マイテ・アルベルディの『83歳のやさしいスパイ』は、A&Aという探偵事務所が新聞に掲載した少し変わった広告がすべての発端になる。

「高齢男性1名募集。80歳から90歳の退職者求む。長期出張が可能で電子機器を扱える方」

その広告を見た老人たちが探偵事務所に集まってくる。面接にあたった探偵ロムロが彼らのなかから選んだのは、数か月前に妻に先立たれた83歳のセルヒオ。彼の任務は、老人ホームへの潜入捜査で、依頼人は、聖フランシスコ特養ホームに入所している母親が虐待を受けているのではないかと疑い、その証拠を求めていた。

セルヒオは、スマホや小型カメラを仕込んだめがねなどの扱いを覚え、新しい入所者を装って老人ホームに潜入する。しかし、事態はロムロの期待とは違う方向へと展開していく。スパイとして潜入したセルヒオは、人間として当初の目的とは違うより大切なものを探り当てる。そんな筋書きのないドラマは、まさにドキュメンタリーの醍醐味だが、決してすべてが成り行きや偶然の産物というわけではない。

異なる思惑、期待をはるかに超える化学変化

本作は、その舞台裏についてあれこれ想像してみると、筋書きのないドラマがさらに興味深く思えてくる。

潜入捜査の案件を担当するロムロが、なぜこの撮影を承諾したのかは定かでないが、彼と監督のアルベルディには出発点から違う思惑がある。彼女はインタビューで以下のように語っている。


「私が探偵事務所で働いていた時、身内が老人ホームでどのような生活をしているか調べてほしいという依頼は繰り返し入ってきました。私は、このような事例に非常に関心を持ったんです。なぜなら、これらの調査がいかにノンセンスであるかを示しているだけでなく、年を取ることについて、またそのような施設に入居している人たちにどんなことが起こるかということを考えさせられるから。そこで、探偵からこの特定の老人ホームの話を聞き、この事例を映画で取り上げることにしました」

この発言も踏まえて、まず確認しておきたいのが、瞬間的に映像に映り込むこともある撮影クルーの立ち位置だ。

新しい入所者を装うセルヒオに、監督や撮影クルーがのこのこついていけば、潜入捜査どころではなくなってしまう。そこで製作チームは、年配者についてのドキュメンタリーを作るという名目でホーム内の撮影許可を取り、撮影クルーはセルヒオが入所する2週間前から撮影を始め、そこに溶け込んでいた。

ちなみに、撮影クルーは自由に撮影することが許されていた。それは、ホームに見られたくないものがないことを示唆するが、いずれにしても、セルヒオの立場と比べてみれば、彼らが2週間で虐待の可能性があるのかを確認することはそれほど難しくはなかっただろう。入所者を装うセルヒオは、4人の似た人物からターゲットを特定するだけでも手間取るが、彼らは自由に動いて調べられたのだから。

プロフィール

大場正明

評論家。
1957年、神奈川県生まれ。中央大学法学部卒。「CDジャーナル」、「宝島」、「キネマ旬報」などに寄稿。「週刊朝日」の映画星取表を担当中。著書・編著書は『サバービアの憂鬱——アメリカン・ファミリーの光と影』(東京書籍)、『CineLesson15 アメリカ映画主義』(フィルムアート社)、『90年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)など。趣味は登山、温泉・霊場巡り、写真。
ホームページ/ブログは、“crisscross”“楽土慢遊”“Into the Wild 2.0”

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

トランプ氏、5月中旬にサウジ訪問を計画 2期目初の

ワールド

イスタンブールで野党主催の数十万人デモ、市長逮捕に

ワールド

トランプ大統領、3期目目指す可能性否定せず 「方法

ワールド

ウクライナ東部ハリコフにロシア無人機攻撃、2人死亡
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:まだ世界が知らない 小さなSDGs
特集:まだ世界が知らない 小さなSDGs
2025年4月 1日号(3/25発売)

トランプの「逆風」をはね返す企業の努力が地球を救う

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い国はどこ?
  • 2
    ガムから有害物質が体内に取り込まれている...研究者が警鐘【最新研究】
  • 3
    ロシア空軍基地へのドローン攻撃で、ウクライナが「最大の戦果」...巡航ミサイル96発を破壊
  • 4
    「炊き出し」現場ルポ 集まったのはホームレス、生…
  • 5
    磯遊びでは「注意が必要」...6歳の少年が「思わぬ生…
  • 6
    メーガン妃のパスタ料理が賛否両論...「イタリアのお…
  • 7
    3500年前の粘土板の「くさび形文字」を解読...「意外…
  • 8
    突然の痛風、原因は「贅沢」とは無縁の生活だった...…
  • 9
    中国戦闘機が「ほぼ垂直に墜落」する衝撃の瞬間...大…
  • 10
    なぜ「猛毒の魚」を大量に...アメリカ先住民がトゲの…
  • 1
    「一夜にして死の川に」 ザンビアで、中国所有の鉱山ダムから有毒の水が流出...惨状伝える映像
  • 2
    テスラの没落が止まらない...株価は暴落、業績も行き詰った「時代遅れ企業」の行く末は?【アニメで解説】
  • 3
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い国はどこ?
  • 4
    【独占】テスラ株急落で大口投資家が本誌に激白「取…
  • 5
    800年前のペルーのミイラに刻まれた精緻すぎるタトゥ…
  • 6
    一体なぜ、子供の遺骨に「肉を削がれた痕」が?...中…
  • 7
    ロシア空軍基地へのドローン攻撃で、ウクライナが「…
  • 8
    「テスラ離れ」止まらず...「放火」続発のなか、手放…
  • 9
    「この巨大な線は何の影?」飛行機の窓から撮影され…
  • 10
    現地人は下層労働者、給料も7分の1以下...友好国ニジ…
  • 1
    中国戦闘機が「ほぼ垂直に墜落」する衝撃の瞬間...大爆発する機体の「背後」に映っていたのは?
  • 2
    「テスラ時代」の崩壊...欧州でシェア壊滅、アジアでも販売不振の納得理由
  • 3
    「さようなら、テスラ...」オーナーが次々に「売り飛ばす」理由とは?
  • 4
    「一夜にして死の川に」 ザンビアで、中国所有の鉱山…
  • 5
    テスラ失墜...再販価値暴落、下取り拒否...もはやス…
  • 6
    「今まで食べた中で1番おいしいステーキ...」ドジャ…
  • 7
    市販薬が一部の「がんの転移」を防ぐ可能性【最新研…
  • 8
    テスラ販売急減の衝撃...国別に見た「最も苦戦してい…
  • 9
    テスラ離れが急加速...世界中のオーナーが「見限る」…
  • 10
    テスラの没落が止まらない...株価は暴落、業績も行き…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story