コラム

インドの女性問題と階級格差を描く『あなたの名前を呼べたなら』

2019年08月01日(木)17時45分

あらゆる側面で存在する階級の断絶

本作で見逃せないのは、主人公たちが、お互いに相手が生きる世界をほとんどなにも知らない、知りようがない現実だ。

ラトナはファッションデザイナーになる夢を持っていて、仕事の合間に洋裁の勉強を始める。そんな彼女はある日、いつもバスのなかから見つめていたブティックに足を踏み入れるが、不審者とみなされ、逃げるように店を後にする。一方、アシュヴィンは、建設現場の見回りを終えた後で、下層の人々が暮らすエリアをひとりで歩き、その生活を垣間見る。

チャイタニヤ・タームハネー監督の『裁き』やラーフル・ジャイン監督のドキュメンタリー『人間機械』を取り上げたときにも参考にしたアマルティア・センの『開発なき成長の限界 現代インドの貧困・格差・社会的分断』では、インドのメディアの歪みや偏りが、以下のように説明されている。


「メディアや公共的議論でその暮らしぶりに大きな注目が集まるような人たちと、剥奪と絶望のなかで暮らしていることがそういった情報伝達の領域ではほとんど目につかないまたは認識されない、それ以外の人たちとの間に明らかな違いがあるのは、特権階級とそれ以外の人たちとの間にあらゆる側面で断絶が存在するためであると理解せざるをえないのである」

oba0801c.jpg

『開発なき成長の限界 現代インドの貧困・格差・社会的分断』アマルティア・セン/ジャン・ドレーズ 湊一樹訳(明石書店、2015年)

こうした断絶を踏まえてみると、本作に盛り込まれたエピソードがより興味深いものになる。

たとえば、アシュヴィンの婚約者だったサビナとラトナの関係だ。ラトナには、サビナから腕輪をもらったことが人生の大きな分岐点になっている。未亡人という立場からその贈り物に戸惑うラトナに、サビナは「ここはムンバイよ、自分の生き方は自分で決める」と元気づけ、彼女の人生観が大きく変わった。特権階級の人間からそんなふうに励まされたことが、彼女の自信に繋がっているのだ。

しかし、たとえ特権階級の人間であってもどうにもならないこともある。ラトナの複雑な立場を理解しているとはいいがたいアシュヴィンが、恋愛感情に駆られて軽はずみな行動をとれば、ラトナを追いつめ、自身も追いつめられることになる。

「家族」が、籠にインド人をとらえ、縛りつける

では、彼らはなにに追いつめられるのか。筆者が思い出すのは、『人間機械』でも触れたアラヴィンド・アディガの小説『グローバリズム出づる処の殺人者より』のことだ。

その主人公は、インド一万年の歴史のなかで最大の発明を"鳥籠"と呼び、逃れられない運命を背負った人々を、市場に置かれた金網の籠に押し込まれた鶏に重ねた。その鳥籠が機能するのは、インド人の愛と犠牲の宝庫である「家族」が、籠にインド人をとらえ、縛りつけているからだ。

oba0801b.jpg『グローバリズム出づる処の殺人者より』アラヴィンド・アディガ 鈴木恵訳(文藝春秋、2009年)

アディガとゲラは、インドに生まれ、アメリカの大学で学び、海外でキャリアを積み上げてきた。そんな彼らは、それぞれのデビュー作で共通するテーマを扱っていると見ることもできる。ゲラは本作のプレスで、以下のように語ってもいる。


「そのような関係がうまくいくためには、自分たちの家族から離れなければならないと思います」

ただし、ふたりの表現はまったく対照的だ。アディガは過激な表現で鳥籠を痛烈に風刺した。これに対して、ゲラは、抑制された演技が際立つ男女のドラマを通して、それを見事に炙り出している。

プロフィール

大場正明

評論家。
1957年、神奈川県生まれ。中央大学法学部卒。「CDジャーナル」、「宝島」、「キネマ旬報」などに寄稿。「週刊朝日」の映画星取表を担当中。著書・編著書は『サバービアの憂鬱——アメリカン・ファミリーの光と影』(東京書籍)、『CineLesson15 アメリカ映画主義』(フィルムアート社)、『90年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)など。趣味は登山、温泉・霊場巡り、写真。
ホームページ/ブログは、“crisscross”“楽土慢遊”“Into the Wild 2.0”

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

アングル:もう賄賂は払わない、アサド政権崩壊で夢と

ワールド

アングル:政治的権利に目覚めるアフリカの若者、デジ

ワールド

尹大統領の逮捕状発付、韓国地裁 本格捜査へ

ワールド

アングル:フィリピンの「ごみゼロ」宣言、達成は非正
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:トランプ新政権ガイド
特集:トランプ新政権ガイド
2025年1月21日号(1/15発売)

1月20日の就任式を目前に「爆弾」を連続投下。トランプ新政権の外交・内政と日本経済への影響は?

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「拷問に近いことも...」獲得賞金は10億円、最も稼いでいるプロゲーマーが語る「eスポーツのリアル」
  • 2
    【クイズ】世界で1番マイクロプラスチックを「食べている」のは、どの地域に住む人?
  • 3
    「搭乗券を見せてください」飛行機に侵入した「まさかの密航者」をCAが撮影...追い出すまでの攻防にSNS爆笑
  • 4
    感染症に強い食事法とは?...食物繊維と腸の関係が明…
  • 5
    女性クリエイター「1日に100人と寝る」チャレンジが…
  • 6
    【クイズ】次のうち、和製英語「ではない」のはどれ…
  • 7
    フランス、ドイツ、韓国、イギリス......世界の政治…
  • 8
    失礼すぎる!「1人ディズニー」を楽しむ男性に、女性…
  • 9
    オレンジの閃光が夜空一面を照らす瞬間...ロシア西部…
  • 10
    本当に残念...『イカゲーム』シーズン2に「出てこな…
  • 1
    ティーバッグから有害物質が放出されている...研究者が警告【最新研究】
  • 2
    体の筋肉量が落ちにくくなる3つの条件は?...和田秀樹医師に聞く「老けない」最強の食事法
  • 3
    睡眠時間60分の差で、脳の老化速度は2倍! カギは「最初の90分」...快眠の「7つのコツ」とは?
  • 4
    「拷問に近いことも...」獲得賞金は10億円、最も稼い…
  • 5
    メーガン妃のNetflix新番組「ウィズ・ラブ、メーガン…
  • 6
    轟音に次ぐ轟音...ロシア国内の化学工場を夜間に襲う…
  • 7
    【クイズ】世界で1番マイクロプラスチックを「食べて…
  • 8
    北朝鮮兵が「下品なビデオ」を見ている...ロシア軍参…
  • 9
    ドラマ「海に眠るダイヤモンド」で再注目...軍艦島の…
  • 10
    【クイズ】次のうち、和製英語「ではない」のはどれ…
  • 1
    ティーバッグから有害物質が放出されている...研究者が警告【最新研究】
  • 2
    大腸がんの原因になる食品とは?...がん治療に革命をもたらす可能性も【最新研究】
  • 3
    体の筋肉量が落ちにくくなる3つの条件は?...和田秀樹医師に聞く「老けない」最強の食事法
  • 4
    夜空を切り裂いた「爆発の閃光」...「ロシア北方艦隊…
  • 5
    インスタント食品が招く「静かな健康危機」...研究が…
  • 6
    TBS日曜劇場が描かなかった坑夫生活...東京ドーム1.3…
  • 7
    「涙止まらん...」トリミングの結果、何の動物か分か…
  • 8
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるよ…
  • 9
    「戦死証明書」を渡され...ロシアで戦死した北朝鮮兵…
  • 10
    「腹の底から笑った!」ママの「アダルト」なクリス…
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story