コラム

現代美術家アイ・ウェイウェイが、難民の立場で地球をめぐる『ヒューマン・フロー/大地漂流』

2019年01月11日(金)16時40分

国境には有刺鉄線が張り巡らされている

一方、本作に頻繁に登場するアイは、個人的な意見を述べることはない。だが、映像の積み重ねが彼の考えを物語っている。

本作の導入部では、ギリシャのレスボス島にたどり着いた難民たちの姿が映し出され、「2015〜2016年、シリア、イラク、アフガニスタンなどから100万人以上の難民がギリシャに押し寄せた」という字幕が挿入される。そこから難民たちは、ドイツやスウェーデン、その他の国々を目指して移動を始める。だが、彼らの長い行列の行く手に、ヨーロッパの対応が待ち受けている。

ギリシャとマケドニアの国境には有刺鉄線が張り巡らされている。ヒューマン・ライツ・ウォッチの職員が、スロベニアやクロアチア、セルビアの国境も閉ざされ、約1万3000人が立ち往生していると説明する。ハンガリーの国境に張り巡らされたフェンスが空撮で映し出され、「まるでヨーロッパ版万里の長城だ。ハンガリーが移民の流入を止めるため巨大なフェンスで大陸を分断した」という新聞記事が挿入される。

アイは、難民たちが立ち往生するヨーロッパから中東に向かう。ヨルダンの難民キャンプを訪れた彼は、担当者から、受け入れたシリア難民の数が140万人にのぼり、人口比率で考えるとアメリカやEUに6000万人が流入したも同然だと説明される。トルコは300万人以上の難民を、レバノンはシリアやパレスチナの難民を、人口の3分の1に当たる約200万人保護している。

排除、保護、避難生活、そして送還(帰還)という難民の体験

しかし、難民キャンプを訪ね回るアイの関心は、難民の数だけではなく、他の問題へと広がっていく。それは、難民の実情について語るヨルダン王女の「難民は平均25年ほど避難生活を続けます」という発言や、「難民は世界平均26年以上の避難生活を送る」というデータに表れている。アイが出会う難民たちは、長期にわたって劣悪な環境で厳しい生活を送り、子供の成長にも影響を及ぼしている。

それを踏まえるなら、アイの関心がパレスチナ難民に向かうのも頷けるだろう。彼は、レバノンのアイン・エルヒルウェ難民キャンプやパレスチナ自治区ガザを訪れる。ユニセフのレバノン事務所代表の説明によれば、中東戦争以来60年以上パレスチナ人を保護しているアイン・エルヒルウェ難民キャンプは、人口密度が高く、1キロ四方に10万人が暮らし、キャンプ育ちの難民もたくさんいる。

さらに、アイがパキスタンやアフガニスタンに移動すると、本作の構成がより明確になる。パキスタンは、1979年のソ連のアフガン侵攻以来、300万人の難民を保護しているが、アイが注目するのは、パキスタンにおける彼らの避難生活ではなく、送還されることになった難民の姿だからだ。

彼はヨーロッパから移動しつつ、排除、保護、避難生活、そして送還(帰還)という難民の体験をたどっていることになる。そして、難民の帰還にも難しい問題が浮かび上がる。祖国に戻ったアフガン難民は、市民にはなるものの、長い不在の間にかつての生活の基盤は失われ、結局、難民状態に恐れがあるのだ。

「難民の悲劇に対する麻痺状態」

いま難民問題に警鐘を鳴らす人々はみな、強い危機感を持っている。社会学者のジグムント・バウマンは、『自分とは違った人たちとどう向き合うか 難民問題から考える』で、「難民の悲劇に対する麻痺状態」に言及し、「残念ながら、こうした衝撃も日常のありふれた出来事に変わろうとしており、モラル・パニックも収まって意識や視界から消え、忘却のヴェールに包まれようとしている」と書いている。キングズレーの前掲同書にも「何より異常なのは、今はこれがありふれた光景になったことかもしれない」という記述がある。

アイがそんな危機感に駆られて作り上げた本作では、難民として生きることや、難民の過去・現在・未来に対する想像を掻き立てるような独自の視点と表現が際立っている。


《参照/引用文献》
『シリア難民 人類に突きつけられた21世紀最悪の難問』パトリック・キングズレー 藤原朝子訳(ダイヤモンド社、2016年)
『自分とは違った人たちとどう向き合うか 難民問題から考える』ジグムント・バウマン 伊藤茂訳(青土社、2017年)


『ヒューマン・フロー/大地漂流』
2019年1月12日(土)、シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開
(C)2017 Human Flow UG. All Rights Reserved.

プロフィール

大場正明

評論家。
1957年、神奈川県生まれ。中央大学法学部卒。「CDジャーナル」、「宝島」、「キネマ旬報」などに寄稿。「週刊朝日」の映画星取表を担当中。著書・編著書は『サバービアの憂鬱——アメリカン・ファミリーの光と影』(東京書籍)、『CineLesson15 アメリカ映画主義』(フィルムアート社)、『90年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)など。趣味は登山、温泉・霊場巡り、写真。
ホームページ/ブログは、“crisscross”“楽土慢遊”“Into the Wild 2.0”

あわせて読みたい
ニュース速報

ビジネス

米バークシャー、24年は3年連続最高益 日本の商社

ワールド

トランプ氏、中国による戦略分野への投資を制限 CF

ワールド

ウクライナ資源譲渡、合意近い 援助分回収する=トラ

ビジネス

ECB預金金利、夏までに2%へ引き下げも=仏中銀総
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:ウクライナが停戦する日
特集:ウクライナが停戦する日
2025年2月25日号(2/18発売)

ゼレンスキーとプーチンがトランプの圧力で妥協? 20万人以上が死んだ戦争が終わる条件は

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    細胞を若返らせるカギが発見される...日本の研究チームが発表【最新研究】
  • 2
    障がいで歩けない子犬が、補助具で「初めて歩く」映像...嬉しそうな姿に感動する人が続出
  • 3
    人気も販売台数も凋落...クールなEVテスラ「オワコン化」の理由
  • 4
    深夜の防犯カメラ写真に「幽霊の姿が!」と話題に...…
  • 5
    がん細胞が正常に戻る「分子スイッチ」が発見される…
  • 6
    トランプが「マスクに主役を奪われて怒っている」...…
  • 7
    見逃さないで...犬があなたを愛している「11のサイン…
  • 8
    口から入ったマイクロプラスチックの行く先は「脳」…
  • 9
    動かないのに筋力アップ? 88歳医大名誉教授が語る「…
  • 10
    「健康寿命」を延ばすのは「少食」と「皮下脂肪」だ…
  • 1
    口から入ったマイクロプラスチックの行く先は「脳」だった?...高濃度で含まれる「食べ物」に注意【最新研究】
  • 2
    がん細胞が正常に戻る「分子スイッチ」が発見される【最新研究】
  • 3
    人気も販売台数も凋落...クールなEVテスラ「オワコン化」の理由
  • 4
    動かないのに筋力アップ? 88歳医大名誉教授が語る「…
  • 5
    朝1杯の「バターコーヒー」が老化を遅らせる...細胞…
  • 6
    7年後に迫る「小惑星の衝突を防げ」、中国が「地球防…
  • 7
    ビタミンB1で疲労回復!疲れに効く3つの野菜&腸活に…
  • 8
    「トランプ相互関税」の範囲が広すぎて滅茶苦茶...VA…
  • 9
    細胞を若返らせるカギが発見される...日本の研究チー…
  • 10
    飛行中の航空機が空中で発火、大炎上...米テキサスの…
  • 1
    週刊文春は「訂正」を出す必要などなかった
  • 2
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる唯一の方法
  • 3
    【一発アウト】税務署が「怪しい!」と思う通帳とは?
  • 4
    口から入ったマイクロプラスチックの行く先は「脳」…
  • 5
    「健康寿命」を延ばすのは「少食」と「皮下脂肪」だ…
  • 6
    1日大さじ1杯でOK!「細胞の老化」や「体重の増加」…
  • 7
    がん細胞が正常に戻る「分子スイッチ」が発見される…
  • 8
    戦場に「北朝鮮兵はもういない」とロシア国営テレビ.…
  • 9
    世界初の研究:コーヒーは「飲む時間帯」で健康効果…
  • 10
    「DeepSeekショック」の株価大暴落が回避された理由
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story