コラム

再ナチ化が進行していたドイツの過去の克服の物語『アイヒマンを追え!』

2016年12月22日(木)15時50分

バウアーが国家反逆罪で刑務所に送られていたら...

 もちろん、これだけの設定であれば、再ナチ化された国家と過去の克服を目指すバウアーとの対決という図式にしかならない。だが、緻密な脚本に基づくドラマからは、異なる図式が浮かび上がる。たとえば、映画の導入部のエピソードだ。ある日、帰宅したバウアーは、扉の隙間から「くたばれ、ユダヤ人」と書かれた脅迫状が差し込まれているのに気づく。動揺した彼は、家の周囲に人の気配がないか確認し、心を落ち着けようとするようにデンマークに暮らす妹に電話をする。

 それだけのエピソードのなかに多くのことが示唆されている。バウアーはシュトゥットガルト生まれのユダヤ人で、1933年にナチによって保護検束され、後にデンマークに逃れ、そこからスウェーデンに脱出した。そして49年にドイツに戻り、法曹界に復帰した。一方、映画の背景となる50年代末の西ドイツでは、反ユダヤ主義が表面化していた。ペーター・ライヒェルの『ドイツ 過去の克服』ではそれが以下のように表現されている。


「五〇年代末には、社会に反ユダヤ主義に基づく潜在的な抗議があることはもはや見逃されようもなかった。注意深い観察者たちは、ナチの過去との取り組みで、ある根本的な変化がくっきりと形をとりはじめていることにすでに気づいていた。(中略)はるか以前のことのように錯覚していた歴史が知らぬ間に現在のことになっていたのであり、過去が再び自分たちの歴史の一部となっているということ、ナチはドイツ人だったということ、非常に多くのドイツ人がナチであったということが明らかになった」

 バウアーは祖国を愛するドイツ人として過去の克服を推し進めているが、周囲からは「復讐に燃えるユダヤ人」とみなされている。つまり彼は、反ユダヤ主義対ユダヤ人という図式に引きずり込まれようとしている。映画の終盤には、計画が暗礁に乗り上げ、絶望感にとらわれた彼が、自分は復讐に燃えるユダヤ人なのかと嘆く場面がある。これは、先述した図式とは決定的な違いがあるが、そこに話を進める前に、もうひとつの図式にも触れておきたい。

 クラウメ監督は、バウアーがデンマーク亡命時代に男娼と一緒にいるところを逮捕された事実にインスパイアされ、同性愛に関わる印象的なエピソードを盛り込んでいる。当時の西ドイツでは、刑法175条で同性愛が罰せられていた。この映画では、バウアーの動向を監視する連邦刑事局が、バウアーがデンマークで逮捕されたときの警察の報告書を入手し、彼を失脚させようと画策している。

 さらに、バウアーと共に戦う架空の若い検事が同様の性的指向を持つ人物に設定されている。そんな検事は、同性愛をめぐる裁判で民主主義の時代を反映した量刑を求めるが、旧態依然とした裁判所はそれを受け入れない。そこからは、国家対同性愛者の図式も浮かび上がる。反ユダヤ主義が表面化したことで混乱をきたした法曹界では、法律と判事のどちらに欠陥があるのかという議論が起こったが、このエピソードはそんな問題に繋がっているともいえる。

 バウアーがイスラエルの法務省と交わした密約では、拘束されたアイヒマンの身柄はドイツに引き渡されることになっていた。私たちはすでにその結果を知っている。アイヒマンの裁判がイスラエルで行われれば、ユダヤ人がなにをされたかが明らかになるが、バウアーが望んだのは、ドイツで裁判を行い、ドイツ人がなにをしたのかを明らかにすることだった。

 そして、こうした国家とバウアーのせめぎ合いを踏まえたうえで振り返ってみると興味深いのが、映画の冒頭に挿入されているバウアー本人の映像だ。クラウメ監督のコメントによれば、それはアイヒマン裁判についてのテレビの告知から抜き出したものだという。バウアーがアイヒマン拘束に関わっていたのが明らかになったのは、彼の死の10年後ということなので、この告知の時点では国民には知られていない。アイヒマン裁判はバウアーが望むかたちにならなかったが、それでも彼はカメラに向かって以下のように語っている。


「ドイツの若い世代なら可能なはずだ。過去の歴史と真実を知っても克服できる。しかしそれは、彼らの親世代には難しいことなのだ」

 アイヒマンがドイツで裁かれていたら、ドイツの戦後史にどのような影響を及ぼしていたのか。バウアーが国家反逆罪で刑務所に送られていたら、アウシュヴィッツ裁判はどうなっていたのか。この映画では、バウアーの深く激しい葛藤を通して、過去の克服というテーマが浮き彫りにされている。

《参照/引用文献》
『ドイツ 過去の克服――ナチ独裁に対する1945年以降の政治的・法的取り組み』ペーター・ライヒェル 小川保博・芝野由和訳(八朔社、2006年)

.

○『アイヒマンを追え! ナチスがもっとも畏れた男』
公開:1/7(土)Bunkamuraル・シネマ、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国ロードショー
(C)2015 zero one film / TERZ Film

プロフィール

大場正明

評論家。
1957年、神奈川県生まれ。中央大学法学部卒。「CDジャーナル」、「宝島」、「キネマ旬報」などに寄稿。「週刊朝日」の映画星取表を担当中。著書・編著書は『サバービアの憂鬱——アメリカン・ファミリーの光と影』(東京書籍)、『CineLesson15 アメリカ映画主義』(フィルムアート社)、『90年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)など。趣味は登山、温泉・霊場巡り、写真。
ホームページ/ブログは、“crisscross”“楽土慢遊”“Into the Wild 2.0”

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

人民元相場、米国よりも欧州にとってより大きな問題=

ビジネス

SBG「ビジョン・ファンド」、2割レイオフへ AI

ビジネス

三井住友FG、米ジェフリーズへ追加出資で最終調整=

ワールド

EU、ロシア産LNGの輸入禁止前倒し案を協議
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:世界が尊敬する日本の小説36
特集:世界が尊敬する日本の小説36
2025年9月16日/2025年9月23日号(9/ 9発売)

優れた翻訳を味方に人気と評価が急上昇中。21世紀に起きた世界文学の大変化とは

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「何だこれは...」クルーズ船の客室に出現した「謎の物体」にSNS大爆笑、「深海魚」説に「カニ」説も?
  • 2
    燃え上がる「ロシア最大級の製油所」...ウクライナ軍、夜間に大規模ドローン攻撃 国境から約1300キロ
  • 3
    1年で1000万人が死亡の可能性...迫る「スーパーバグ」感染爆発に対抗できる「100年前に忘れられた」治療法とは?
  • 4
    「最悪」「悪夢だ」 飛行機内で眠っていた女性が撮影…
  • 5
    「日本を見習え!」米セブンイレブンが刷新を発表、…
  • 6
    アジア作品に日本人はいない? 伊坂幸太郎原作『ブ…
  • 7
    ケージを掃除中の飼い主にジャーマンシェパードがま…
  • 8
    中国山東省の住民が、「軍のミサイルが謎の物体を撃…
  • 9
    中国経済をむしばむ「内巻」現象とは?
  • 10
    「ゾンビに襲われてるのかと...」荒野で車が立ち往生…
  • 1
    「最悪」「悪夢だ」 飛行機内で眠っていた女性が撮影...目覚めた時の「信じがたい光景」に驚きの声
  • 2
    「中野サンプラザ再開発」の計画断念、「考えてみれば当然」の理由...再開発ブーム終焉で起きること
  • 3
    【クイズ】次のうち、飲むと「蚊に刺されやすくなる」飲み物はどれ?
  • 4
    科学が解き明かす「長寿の謎」...100歳まで生きる人…
  • 5
    「二度見した」「小石のよう...」マッチョ俳優ドウェ…
  • 6
    「我々は嘘をつかれている...」UFOらしき物体にミサ…
  • 7
    【クイズ】世界で唯一「蚊のいない国」はどこ?
  • 8
    【クイズ】世界で1番「島の数」が多い国はどこ?
  • 9
    「何だこれは...」クルーズ船の客室に出現した「謎の…
  • 10
    電車内で「ウクライナ難民の女性」が襲われた驚愕シ…
  • 1
    「4針ですかね、縫いました」日本の若者を食い物にする「豪ワーホリのリアル」...アジア出身者を意図的にターゲットに
  • 2
    【クイズ】世界で唯一「蚊のいない国」はどこ?
  • 3
    「まさかの真犯人」にネット爆笑...大家から再三「果物泥棒」と疑われた女性が無実を証明した「証拠映像」が話題に
  • 4
    信じられない...「洗濯物を干しておいて」夫に頼んだ…
  • 5
    「最悪」「悪夢だ」 飛行機内で眠っていた女性が撮影…
  • 6
    「中野サンプラザ再開発」の計画断念、「考えてみれ…
  • 7
    「我々は嘘をつかれている...」UFOらしき物体にミサ…
  • 8
    プール後の20代女性の素肌に「無数の発疹」...ネット…
  • 9
    【クイズ】次のうち、飲むと「蚊に刺されやすくなる…
  • 10
    「怖すぎる」「速く走って!」夜中に一人ランニング…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story