コラム

オスマン・トルコで起きたアルメニア人虐殺とディアスポラ(離散)の過酷

2015年12月11日(金)15時45分

 ではアキンは、アルメニア人ディアスポラの世界をどのように具体化したのか。彼は膨大なリサーチを行なっているが、この新作を観ると彼に重要なインスピレーションをもたらしている映画があることがわかる。それは、エリア・カザンが63年に撮った『アメリカ アメリカ』だ。二作品の繋がりに興味を覚え、アキンの発言を調べてみると、彼は、新作の撮影に入る前にこの映画を何度も見直し、すべてのショットを研究したと語っていた。

エリア・カザンの『アメリカ アメリカ』(63年)から得たインスピレーション

 『アメリカ アメリカ』は埋もれた名作だが、制作の背景や内容を知れば、アキンが思い入れるのも頷けるだろう。エリア・カザンはイスタンブールに生まれ、ギリシャ系だった一家は彼が4歳のときにアメリカに移住した。そんなカザンの記憶に深く刻み込まれていたのが、祖母が語って聞かせたアルメニア人虐殺の物語だった。虐殺は19世紀後半から起こっていたが、そのとき彼の祖父母はアルメニア人を地下室に匿ったのだった。カザンはその記憶を糸口に自己のルーツを探り、『アメリカ アメリカ』を作り上げた。

 その物語は、キリスト教徒のアルメニア人やギリシャ人が弾圧されている19世紀末のオスマン帝国、アナトリアから始まる。主人公のギリシャ人の若者スタヴロスは、アルメニア人の親友から自由の国アメリカの話を聞かされ、強い憧れを持つ。その後に起こった虐殺で親友の死を目の当たりにした彼は、アメリカ行きを決意し、そこから過酷な旅が始まる。道中で出会った狡猾なトルコ人に身ぐるみ剥がされ、イスタンブールで重労働に耐えるものの道は開けず、結婚までする。それでもアメリカを諦めきれず、新世界に向かう船に乗り込んでいく。

 この映画では、善悪の狭間で激しく揺れるスタヴロスの姿が、ナイフや靴を通して強調される。彼は、旅の途上で自分を騙し、屈辱したトルコ人を祖母から譲られたナイフで殺してしまう。アナトリアを離れる前に、同じようにアメリカを目指して裸足で旅をするアルメニア人の若者に出会ったスタヴロスは、自分の靴を彼に与え、それが縁となってふたりの運命は船がアメリカに着く直前まで複雑に絡み合っていく。

 アキンのこの新作では、スタヴロスが呪文のように繰り返す「アメリカ、アメリカ」という言葉が、双子の娘に置き換えられる。ナザレットが九死に一生を得るのは、彼の処刑人となった男メフメトが、殺人を躊躇いナイフを深く突き刺すことができなかったからだ。ナザレットにまだ息があることに気づいたメフメトは、あとでその場に戻って彼を助け、ふたりは群盗に加わる。そして、ナザレットが家族の消息を追うために群盗を去るとき、メフメトが自分の靴を彼に与える。

 ナザレットは、メフメトや衰弱した彼をアレッポに運んだムスリムの商人などの善意で生き延びる。一方で、スタヴロスと同じ目をしたナザレットは、苦境にある知人を見放し、他者に恨みをぶつけ、他者から強引に奪うこともする。つまり、被害者であるだけでなく、加害者にもなる。

 加害者と被害者の間に単純で明確な一線を引いてしまえば、善意も被害者が見せる悪の一面も見過ごされ、遺恨や呪いだけが永続化されかねない。難民問題が深刻化する時代に、ディアスポラを通して世界を見直すことには大きな意味があるように思える。

《参照/引用文献》
『新版 グローバル・ディアスポラ』ロビン・コーエン 駒井洋訳(明石書店、2012年)

●映画情報
『消えた声が、その名を呼ぶ』
監督:ファティ・アキン
公開:12月26日より角川シネマ有楽町、YEBISU GARDEN CINEMAほか、全国順次ロードショー
(c)Gordon Muhle/ bombero international

プロフィール

大場正明

評論家。
1957年、神奈川県生まれ。中央大学法学部卒。「CDジャーナル」、「宝島」、「キネマ旬報」などに寄稿。「週刊朝日」の映画星取表を担当中。著書・編著書は『サバービアの憂鬱——アメリカン・ファミリーの光と影』(東京書籍)、『CineLesson15 アメリカ映画主義』(フィルムアート社)、『90年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)など。趣味は登山、温泉・霊場巡り、写真。
ホームページ/ブログは、“crisscross”“楽土慢遊”“Into the Wild 2.0”

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

米国、和平合意迫るためウクライナに圧力 情報・武器

ビジネス

米FRB、インフレリスクなく「短期的に」利下げ可能

ビジネス

ユーロ圏の成長は予想上回る、金利水準は適切=ECB

ワールド

米「ゴールデンドーム」計画、政府閉鎖などで大幅遅延
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:世界も「老害」戦争
特集:世界も「老害」戦争
2025年11月25日号(11/18発売)

アメリカもヨーロッパも高齢化が進み、未来を担う若者が「犠牲」に

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「髪形がおかしい...」実写版『モアナ』予告編に批判殺到、そもそも「実写化が早すぎる」との声も
  • 2
    高速で回転しながら「地上に落下」...トルコの軍用輸送機「C-130」謎の墜落を捉えた「衝撃映像」が拡散
  • 3
    【銘柄】イオンの株価が2倍に。かつての優待株はなぜ成長株へ転生できたのか
  • 4
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるよ…
  • 5
    中国の新空母「福建」の力は如何ほどか? 空母3隻体…
  • 6
    「まじかよ...」母親にヘアカットを頼んだ25歳女性、…
  • 7
    ロシアはすでに戦争準備段階――ポーランド軍トップが…
  • 8
    アメリカの雇用低迷と景気の関係が変化した可能性
  • 9
    幻の古代都市「7つの峡谷の町」...草原の遺跡から見…
  • 10
    AIの浸透で「ブルーカラー」の賃金が上がり、「ホワ…
  • 1
    東京がニューヨークを上回り「世界最大の経済都市」に...日本からは、もう1都市圏がトップ10入り
  • 2
    高速で回転しながら「地上に落下」...トルコの軍用輸送機「C-130」謎の墜落を捉えた「衝撃映像」が拡散
  • 3
    「999段の階段」を落下...中国・自動車メーカーがPR動画撮影で「大失態」、遺跡を破壊する「衝撃映像」にSNS震撼
  • 4
    「髪形がおかしい...」実写版『モアナ』予告編に批判…
  • 5
    一瞬にして「巨大な橋が消えた」...中国・「完成直後…
  • 6
    【銘柄】ソニーグループとソニーFG...分離上場で生ま…
  • 7
    【写真・動画】「全身が脳」の生物の神経系とその生態
  • 8
    筋肉の正体は「ホルモン」だった...テストステロン濃…
  • 9
    まるで老人...ロシア初の「AIヒト型ロボット」がお披…
  • 10
    「まじかよ...」母親にヘアカットを頼んだ25歳女性、…
  • 1
    【クイズ】本州で唯一「クマが生息していない県」はどこ?
  • 2
    東京がニューヨークを上回り「世界最大の経済都市」に...日本からは、もう1都市圏がトップ10入り
  • 3
    英国で「パブ離れ」が深刻化、閉店ペースが加速...苦肉の策は「日本では当たり前」の方式だった
  • 4
    一瞬にして「巨大な橋が消えた」...中国・「完成直後…
  • 5
    「不気味すぎる...」カップルの写真に映り込んだ「謎…
  • 6
    【クイズ】ヒグマの生息数が「世界で最も多い国」は…
  • 7
    【写真・動画】世界最大のクモの巣
  • 8
    高速で回転しながら「地上に落下」...トルコの軍用輸…
  • 9
    【クイズ】クマ被害が相次ぐが...「熊害」の正しい読…
  • 10
    「999段の階段」を落下...中国・自動車メーカーがPR…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story