コラム

なぜ「構造改革論」が消えたのか

2018年06月02日(土)10時00分

しかしながら、マクロ派であった筆者からすれば、この構造派の供給阻害仮説は、仮にイギリスには当てはまったとしても、少なくとも日本経済にはまったく当てはまらないものであった。その問題に関しては、筆者は『構造改革論の誤解』(田中秀臣氏との共著、東洋経済新報社、2001年)という一冊の本を書いている。少々長くなるが、その根拠を記した箇所を以下に引用する。


 結論的にいえば、日本の低成長の最大の原因が、[構造問題にではなく]総需要不足にあることは明白である。そのことは、物価上昇率、失業率、そしてGDPギャップの推計結果という三つの側面から論証できる。[中略]一時的な景気回復がみられた1996〜97年を除けば、物価上昇率はほぼ一貫して下落し続けている。完全失業率は、1990年代初頭の2%前後から5%へと、10年間でほぼ3%近く上昇している。[中略]旧経済企画庁の『経済白書』におけるGDPギャップの推計によれば、1990年代の日本経済には、対潜在GDP比率で見てほぼ3〜5%程度のGDPギャップが存在していた。[中略]「日本経済の低成長は需要不足ではなく構造問題から生じた」と主張することは、「日本経済にデフレ・ギャップは存在していない」と主張するに等しい。さらにそれは、「5%という現実の失業率はすべて構造的失業率である」と主張するのに等しい。これらの主張が根拠を持つためには、少なくとも物価は一定に保たれていなければならないはずであるが、現実の日本経済に生じていたのは、歴史的にも稀な持続的物価下落である(野口・田中『構造改革論の誤解』pp.66-68)。

『構造改革論の誤解』では、これらの推論の説明に、この当時には既にマンキューの教科書などによってマクロ経済学教育の最も標準的な分析用具となっていた総需要・総供給モデル(AD-ASモデル)を用いている。このモデルにおいては、総需要の減少とは「AD曲線の左シフト」であり、総供給の縮小とは「AS曲線の左シフト」である。総需要・総供給モデルでは、総需要が減少した場合には、GDPギャップが拡大し、失業は拡大し、物価は下落する。それに対して、構造的失業の拡大によって総供給が縮小した場合には、インフレ・ギャップが発生し、物価は通常は上昇する。

実際、「欧州の病人」時代のイギリスでは、失業が拡大しつつ物価が上昇するという、いわゆるスタグフレーションが発生していた。これは、イギリスの場合には確かに、病気の原因が需要側にではなく供給側にあったことを示唆していた。それに対して、1990年代の日本では、失業が拡大しつつ物価は下落していたのだから、「総需要の減少によるデフレ・ギャップの拡大が失業を拡大させた」ことは、少なくとも教科書推論からは明らかだったのである。

本稿冒頭で述べたように、アベノミクスが発動されて以降のこの5〜6年の間に、日本経済は「物価の大幅な上昇を伴うことのない失業率のより一層の低下」を実現させた。実は、この事実は、上の構造派の供給阻害仮説を最終的に葬り去るものなのである。というのは、日本経済の低迷は供給側の制約によって生じているという彼らの仮説が正しかったのであれば、異次元金融緩和政策のような拡張的マクロ経済政策の発動によって生じる現象は、失業率の低下ではなく、もっぱら「インフレ・ギャップの拡大による物価上昇」であったはずだからである。

プロフィール

野口旭

1958年生まれ。東京大学経済学部卒業。
同大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。専修大学助教授等を経て、1997年から専修大学経済学部教授。専門は国際経済、マクロ経済、経済政策。『エコノミストたちの歪んだ水晶玉』(東洋経済新報社)、『グローバル経済を学ぶ』(ちくま新書)、『経済政策形成の研究』(編著、ナカニシヤ出版)、『世界は危機を克服する―ケインズ主義2.0』(東洋経済新報社)、『アベノミクスが変えた日本経済』 (ちくま新書)、など著書多数。

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

日中双方と協力可能、バランス取る必要=米国務長官

ビジネス

マスク氏のテスラ巨額報酬復活、デラウェア州最高裁が

ワールド

米、シリアでIS拠点に大規模空爆 米兵士殺害に報復

ワールド

エプスタイン文書公開、クリントン元大統領の写真など
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:教養としてのBL入門
特集:教養としてのBL入門
2025年12月23日号(12/16発売)

実写ドラマのヒットで高まるBL(ボーイズラブ)人気。長きにわたるその歴史と深い背景をひもとく

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    懲役10年も覚悟?「中国BL」の裏にある「検閲との戦い」...ドラマ化に漕ぎ着けるための「2つの秘策」とは?
  • 2
    待望の『アバター』3作目は良作?駄作?...人気シリーズが直面した「思いがけない批判」とは?
  • 3
    「食べ方の新方式」老化を防ぐなら、食前にキャベツよりコンビニで買えるコレ
  • 4
    日本がゲームチェンジャーの高出力レーザー兵器を艦…
  • 5
    「何度でも見ちゃう...」ビリー・アイリッシュ、自身…
  • 6
    70%の大学生が「孤独」、問題は高齢者より深刻...物…
  • 7
    香港大火災の本当の原因と、世界が目撃した「アジア…
  • 8
    中国最強空母「福建」の台湾海峡通過は、第一列島線…
  • 9
    ロシア、北朝鮮兵への報酬「不払い」疑惑...金正恩が…
  • 10
    ウクライナ軍ドローン、クリミアのロシア空軍基地に…
  • 1
    日本がゲームチェンジャーの高出力レーザー兵器を艦載、海上での実戦試験へ
  • 2
    人口減少が止まらない中国で、政府が少子化対策の切り札として「あるもの」に課税
  • 3
    「勇気ある選択」をと、IMFも警告...中国、輸出入ともに拡大する「持続可能な」貿易促進へ
  • 4
    【実話】学校の管理教育を批判し、生徒のため校則を…
  • 5
    「最低だ」「ひど過ぎる」...マクドナルドが公開した…
  • 6
    ミトコンドリア刷新で細胞が若返る可能性...老化関連…
  • 7
    自国で好き勝手していた「元独裁者」の哀れすぎる末…
  • 8
    香港大火災の本当の原因と、世界が目撃した「アジア…
  • 9
    【銘柄】資生堂が巨額赤字に転落...その要因と今後の…
  • 10
    身に覚えのない妊娠? 10代の少女、みるみる膨らむお…
  • 1
    日本がゲームチェンジャーの高出力レーザー兵器を艦載、海上での実戦試験へ
  • 2
    人口減少が止まらない中国で、政府が少子化対策の切り札として「あるもの」に課税
  • 3
    日本人には「当たり前」? 外国人が富士山で目にした「信じられない」光景、海外で大きな話題に
  • 4
    【銘柄】オリエンタルランドが急落...日中対立が株価…
  • 5
    日本の「クマ問題」、ドイツの「問題クマ」比較...だ…
  • 6
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるよ…
  • 7
    「勇気ある選択」をと、IMFも警告...中国、輸出入と…
  • 8
    インド国産戦闘機に一体何が? ドバイ航空ショーで…
  • 9
    【衛星画像】南西諸島の日米新軍事拠点 中国の進出…
  • 10
    ポルノ依存症になるメカニズムが判明! 絶対やって…
トランプ2.0記事まとめ
Real
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story