1970年2月、北海道でひとつの街が消滅した
写真は本文と関係ありません Slavica-iStock.
<戦後復興期まで日本の基幹産業だった石炭産業。だが、政府が石炭企業の撤退を推進し、全国で炭鉱の閉山が相次いでいく。その後、そこに暮らしていた人々はどうなったか。「故郷喪失」が過去の出来事と切り捨てられない理由とは>
かつて国内に1000以上もあった炭鉱も、現在では北海道釧路市のただ1鉱を残すのみとなった。それゆえ「終わった産業」だと思われがちだが、実はそうではない――という記事を以前掲載したところ、予想を遥かに超える反響があった(日本の炭鉱は「廃墟」「終わった産業」──とも限らない)。
これは、日本の炭鉱とそこで生きた人々の歴史的意義、そして今日における可能性に光を当てた『炭鉱と「日本の奇跡」――石炭の多面性を掘り直す』(中澤秀雄/嶋﨑尚子・編著、青弓社)を取り上げた記事で、炭鉱という存在が、今なお人々の関心を呼ぶことを窺わせた。
2020年、これと対をなす本が新たに刊行された。
前作とも共通する社会学研究者たちによる『〈つながり〉の戦後史――尺別炭砿閉山とその後のドキュメント』(嶋﨑尚子/新藤 慶/木村至聖/笠原良太/畑山直子・著、青弓社)だ。
1956年以降、928の炭鉱が閉山し、20万人が離職した
石炭産業は、戦後復興期までの日本の基幹産業だった。
北海道や九州には大規模な産炭地が誕生し、特にもともと開拓地であった北海道には、全国各地から大勢の労働者がやって来た。彼らとその家族たちを受け入れることで、炭鉱を中心とした新たな街が形成されていった。
敗戦後には、鉄鋼業とともに経済復興の主軸を担った。大規模な労働力と資材が重点的に配分され、石炭の増産体制が整えられて、焼け野原となった国土を甦らせた。
石炭産業は、その後の高度経済成長、さらには現代日本の礎を築いたと言ってもいい。
だが、1950年代の後半から、製造業をはじめとする新しい成長産業が隆盛となり、石炭産業は衰退へと転じる。政府の石炭政策の下で全国の炭鉱がひとつまたひとつと閉山し、そうして石炭産業は、長い年月をかけて静かに終焉へと向かっていったのだ。
1956年以降に閉山した炭鉱は928。当然ながら、そこで働いていた労働者たちは離職を余儀なくされた。その数、20万人。
炭鉱の街から炭鉱がなくなれば、そこにはもう生きる術がない。彼らは家族とともに街を離れ、生活と人生のすべてを変えなければならなかった。
1964年の東京オリンピックを成功に導いたのは、「金の卵」と呼ばれた集団就職の若者や、農村からの出稼ぎ労働者だと言われてきた。だが、炭鉱閉山によって半ば強制的に転職と移住を強いられた炭鉱離職者たちとその家族の存在を忘れてはならない、と本書は指摘する。