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横尾忠則「呪われた」 デザイナーから画家になり、80代で年間100点の作品を生む
横尾はアルノルト・ベックリンの《死の島》(1880年)に着想を得て、さらに「よく生きることは、よく死ぬこと。よく死ぬことは、よく生きること」という考えやジョルジョ・デ・キリコの絵など様々な源泉からインスピレーションを受け、鑑賞者が作品内部に入り込むことの出来る立体的なコラージュ空間を創り出した。赤や青といった原色の岩が並ぶ庭、三途の川や母体の羊水を感じさせる池、長生と美と青春の輝きと屍の山、大量の滝のイメージが無限に拡がり男性原理を象徴する塔(横尾によると、これは本当は黒ではなく赤でなければならなかったようだが)......。夢と現実、天国と地獄、すべてが渾然一体となった世界、横尾いわく「死の体験を通して無意識に生のエネルギーを放出しているような空間(注6)」が現出した。
土着性や戦前の生活・価値観、ソフトなエロチシズムと亜熱帯的な湿度を漂わせ、観念や言葉よりも肉体的、生理的な体験を提示する横尾の芸術空間が、瀬戸内海の離島に存在することの意味を考える時、三島由紀夫のテキストが思い出される。
「(...)何を喪失するともしれず、ただ喪失してゆく。ハバカリの匂いを、農村を、血の叫びを。......そして、何十年かのち、コンピューターに占領された日本のオフィスの壁には、横尾忠則のポスターだけが、日本を記念するものとして残されるであろう(注7)」
現在に置き換えるならば、あるいは、何十年かのち、都市は高層ビルに占領され、アイデンティティを失った未来の日本では、離島の横尾の作品空間だけが、日本を記念するものとして残されることになるのだろうか――。
宿命とともに
80代も半ばを過ぎた現在も、横尾は大半の時間をアトリエで過ごしている。100号、150号サイズのキャンバス作品を年100点ほど、つまり単純計算すると3日に1枚という驚異的なペースで、まさにピカソのように毎日描き続けているという。新型コロナウイルス感染症によるパンデミック以降も、自身の作品や写真を素材にマスクをコラージュした「WITH CORONA WITHOUT CORONA」をツイッターで発信。ステイホームで家によって制作時間がとれ、集中出来るようになったこともあるようだが、難聴や手の腱鞘炎といった身体の不調にもかかわらず、「寒山拾得」シリーズなどで画風を変えながら新たな自身を見出し続けている。
実は、2021年の東京都現代美術館での大規模な個展「GENKYO 横尾忠則 原郷から幻境へ、そして現況は?」の終了後、一度だけ描くことに飽きて辞めようと思ったことがあったらしいが、そう思ったことで逆に絵から解放され自由に描けるようになり、そこからまた気持ちを新たに絵が描けるようになったという。
2022年には心筋梗塞に見舞われ、死んでもおかしくない状況に陥ったが、奇跡的に命をとりとめた横尾は、しばらく絵を描くことを止められていたにもかかわらず、退院初日に嬉しさのあまり、一気に100号サイズを3点も描いてしまったそうだ。
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