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小沢剛が挑んだ「ユーモアx社会批評」の試みとは
銀座の一等地で経費をかけずに毎月一人の無名アーティストに展示してもらう、世界最小の画廊空間というラディカルなものであったが、数か月程度で警察が来て銀座での継続は不可能となる。(以降、流浪の画廊として場所を移動した後、展覧会等に招かれるようになる)
しかし、貸画廊という日本独自の制度に問いを投げかけ、新しい空間の使い方や、土地や建物がなくてもアートが成立することを示すことになった。
グループでの活動としては、92年に再現芸術集団「スモール・ビレッジ・センター」の活動に参加。1960年代のハイレッド・センターならぬ、小沢剛、村上隆、中村政人の名字から小(スモール)、村(ビレッジ)、中(センター)を組み合わせた名前に明らかなように、戦後の美術の流れ、特にパフォーマンスについて知らなさすぎるため、テキストで読む知識だけでなく再現して検証しようという村上の提案により、大阪など各地でパフォーマンス再現を試みた。
この活動は短期で終了したが、94年には、同じ昭和40年生まれのアーティストや音楽家ら(現メンバーは、小沢のほか、会田誠、大岩オスカール、パルコキノシタ、松蔭浩之、有馬純寿)が集まって昭和40年会を結成。
本グループは、それぞれ作風が大きくかけ離れていることもあり、あくまでも個人の集合体で作品の協働制作などはあまりしないが、時にグループ展を行うなどしつつ、現在も緩やかに活動を継続している。
よくある美術家団体のパロディとか、その後のより若い世代のアーティストコレクティブ活動への影響を指摘する声もあるが、この団体の最大の特徴は彼らが育った高度成長期の日本という時代社会をテーマにしていることだろう。
さて、冒頭の「醤油画資料館」は、20世紀の終わりにあたり、美術を通して日本を振り返るという主旨で発想されたものである。
90年代以降アジアへの関心が高まり、1999年に福岡にアジアの近現代作品を専門的に扱う福岡アジア美術館が発足し、その開館記念の「第1回福岡アジア美術トリエンナーレ1999」に出品された。
日本人の視点で捉えるのに最もしっくりくるものとして、醤油で描かれた古代から戦後の前衛芸術に至る名画の数々は、明治以降、海外から輸入された美術の概念や技法を受容することになった日本の美術史体系の在りように対する批評的な問いである。また、昔のアーティストたちの筆をなぞることは、彼らがどう作っていったのかを追体験し、彼らの視点を作品に介在させることでもあった。
本稿は基本的に本人からの聴き取り等を元に構成。
その他参考文献:
『小沢剛世界の歩き方』(有)イッシプレス、オオタファインアーツ、2001年
「小沢剛 不完全―パラレルな美術史」展図録、千葉市美術館、2018年
「小沢剛展 オールリターン 百年たったら帰っておいで 百年たてばその意味わかる」ブックレット、弘前れんが倉庫美術館、2020年
※野菜の銃とヤギの世話? 現代アーティスト小沢剛の作品が秘めた意図とは? に続く。
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