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小沢剛が挑んだ「ユーモアx社会批評」の試みとは
また、社会の浮ついた空気に反して、『白黒』という雑誌を友人たちと制作。既にこの頃から、小沢の制作の鍵となる「一人旅」と「集団での創作」という両極の関心が見て取れる。
当時、絵を描くことに挫折していた小沢は、担任だった現代アーティストの榎倉康二から日記をつけるよう助言され、文章の代わりに、フィルムカメラを使って毎日写真を撮り始める。この日記と旅、そして江戸時代に各地を遊行して数多くの木彫仏を残した円空への憧れが重なり作品化されていったのが、「地蔵建立」シリーズである。
現像のプロセスが絵作りに似ていると写真に興味を持った小沢は、夕方の暗闇になる直前のトワイライトの光を描くかのように、撮影された写真をブルートナーで青色に染めていった。小沢にとって、青色はどこか癒しを感じさせ、また、視力の落ちる黄昏どきは、一日のうちで最も想像力が備わる時間帯に思えたという。
そして、戒厳令下の天安門広場や朝鮮半島を南北に隔てる板門店、テヘラン、チベット、モスクワ、九龍城砦(香港)からオウム真理教の教団施設があった上九一色村まで...各地の風景のなかに、小さな地蔵のオブジェや紙にドローイングしたものを忍ばせて撮影していった。
当初は風景の中に自分の傷跡・痕跡を残そうと、いたずらのようなものから始まったが、継続するうちに、どんな場所でも日常の風景がその夕方の光に包まれるとき、等しく美しくなる可能性があると思うようになっていったという。
円空からインスピレーションを受けた地蔵というモチーフは、人々の生を静かに見守るとともに救済の可能性と分かち難くあるのだ。
個と集団の間で
こうした孤独な旅の作品の一方で1990年には、描きかけの絵を人々に見せて、他者の意見をもとに加筆修正していく「相談芸術」を開始する。
個人の考えだけを作品に託す、解釈の幅のない「俺様アート」に嫌気がさして始めたという、全て他人任せの作品で、伝言ゲームのように、様々な人に相談しながら作品が出来ていく。ここでは、作品の完成形よりも、自分と他者の間に絵があり会話が成り立つところが面白いと思ったという。
この自我や主体性から脱する試みは、《相談芸術大学》というワークショップや《相談芸術カフェ》など様々な形で展開されていった。
また、1993年にはもうひとつの初期の代表作である「なすび画廊」を、「ザ・ギンブラート」という銀座界隈の路上でアーティストたちが一日だけゲリラ的に展示を行った企画の一環で始めている。
当時、銀座のギャラリーといえば多くは貸画廊、あるいは骨董品の画廊で、本当にデビュー出来るかもわからないのに、大枚をはたいて展覧会をすることに疑問を感じていた小沢は、オルタナティブで事件性のある方法として、有名な貸画廊であるなびす画廊の真ん前の路上で牛乳箱の中を展示空間とする。
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