収奪的なオリンピック、包摂的なパラリンピック
この収奪的なオリンピックを象徴したのが、「ぼったくり男爵」ことIOCのバッハ会長である。緊急事態宣言が敷かれて県境をまたいだ移動を日本国民が自粛しているのをしり目に、彼は札幌に行って沿道で市民に交じってマラソンを観戦したり、銀座を散歩したりとやりたい放題であった。丸川五輪相はオリンピック開催前には大会関係者と一般国民が接触しない「バブル方式」をとるから心配ないと説明していたが、その説明が真っ赤なウソであったことをバッハ会長自らが証明した。
一方、パラリンピックはより包摂的な大会であった。私がパラリンピックのさまざまな競技をじっくりと見たのは今回の東京大会が初めてであるが、パラリンピックが閉幕した9月5日には開催してくれてよかったと思った。
もちろん依然続く新型コロナへの感染拡大のなかで開催することの矛盾や、膨大な開催経費といった問題に関してはパラリンピックもオリンピックと同罪である。ただ、私自身についていえば、パラリンピックにいろいろ学んで、感動したことも事実である。
たとえば、車いすラグビーや車いすバスケットボールでは、障碍のレベルが異なる選手たちが一つのチームを組んで、それぞれの障碍に応じて役割を分担しながら勝利を目指すのだということは、恥ずかしながら今回の大会で初めて学んだ。
こうしたゲームのルールは、障碍者も長期失業者も高齢者も取りこぼさずに生活を保障し、就労を支援していこうという「社会的包摂」の考え方(大沢[2007])をスポーツの形で表現しているように思えた。
金メダルが意味するもの
思うに、人間は誰しも多かれ少なかれハンディキャップを抱えている。私自身についていえば、運動神経が鈍いとか、年をとっているとか。だが、パラリンピックは、ゲームのルールを工夫することによって、さまざまなハンディキャップを抱えた人々がともに輝き、楽しむことができるということを教えてくれた。
オリンピックは、能力の高い人々に、アメとムチを与えることでその能力を極限まで引き出させる競争社会の縮図である一方、パラリンピックは、さまざまなハンディキャップを持つ人々がみな能力を発揮できる共生社会のモデルである。
もしオリンピックが収奪的、パラリンピックが包摂的であるとすると、オリンピックのメダルを多く獲る国は、スポーツエリートに金銭的報酬、競技力を高めるための支援が集中する収奪的な国であるのに対して、パラリンピックのメダルを多く獲る国は、障碍者もスポーツに打ち込めるように社会の資源が配分されている包摂的な国といえるのではないだろうか。
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