コラム

映画『オマールの壁』が映すもの(1)パレスチナのラブストーリーは日本人の物語でもある

2016年05月12日(木)11時45分

 監督は、「撮影チームの中にイスラエル軍に情報を流しているスパイがいるのではないかという疑いにとりつかれた」という。撮影に行くところには必ずイスラエル軍がいたことで、そう思ったのだという。「偶然だったかもしれないが、疑い始めると悪夢のような精神状態になり、イスラエル軍に盗聴されているかもしれないと考えてホテルの部屋ではなく別の場所に泊まったり、携帯電話も別のところに置いたりするなど、被害妄想になり、信じられないことを信じるようになった」と振り返った。

 後日、監督はイスラエルの秘密警察のトップが、「社会を被害妄想にしておくことは重要だ。そうすればみんなが自制するようになる。我々がどこにでもいると思えば、敵は何もできなくなる」と話しているのを聞いた。監督は「被害妄想になれば、自分自身も社会も信じることができなくなる。私が陥っていたのは、まさにそのような状態だったのだ」と語った。

【参考記事】少女「テロリスト」を蜂の巣にする狂気のイスラエル

「信じられないことを信じていた」という言葉は、映画の中で、ナディアから真相を知った後に、オマールが語る言葉である。オマールの場合の「信じられないこと」というのは、「ナディアが妊娠している」ということだった。ナディアにとっては「オマールがイスラエルのスパイだ」ということである。ナディアはそのことをオマールに謝るが、オマールも「信じられないことを信じてしまった」自分の過ちに気付いた。

 アブ・アサド監督はオマールの性格付けについて質問されて、「彼は弱いことを認めようとしない。しかし、強さを示そうとすればするほど、実際にはひどいことになっていく。彼らは自分が思っている以上に弱い」と語っている。監督がいうオマールの弱さが、この映画の人間的なテーマを構成している。

 オマールはナディアを守るために、自分は身を引いてアムジャドと結婚させ、自分が貯金していたお金までアムジャドに渡す。すべて男らしくナディアを守る行為であるが、その男気が実は、オマールは「ナディアが妊娠した」という"事実"に抗おうとせず、ナディアの裏切りの理由を問い詰めるなど現実にぶつかって真実を知ることを避けた"弱さ"に発しているのである。

占領がなくても起こり得る普遍的な物語

 私はこの映画を初めて試写会で見た時に、これはパレスチナの物語であるが、同時に私たち日本人の物語でもある、と思い、それをツイッターで書いた。現実とぶつかって真実を知れば、何が本当で、何が嘘かを知ることができる。しかし、自分の日常や人間関係を破綻させないために、現実とぶつかることを恐れ、真実を知ることを恐れれば、日常は足場を失って崩れていくという教訓である。

プロフィール

川上泰徳

中東ジャーナリスト。フリーランスとして中東を拠点に活動。1956年生まれ。元朝日新聞記者。大阪外国語大学アラビア語科卒。特派員としてカイロ、エルサレム、バグダッドに駐在。中東報道でボーン・上田記念国際記者賞受賞。著書に『中東の現場を歩く』(合同出版)、『イラク零年』(朝日新聞)、『イスラムを生きる人びと』(岩波書店)、共著『ジャーナリストはなぜ「戦場」へ行くのか』(集英社新書)、『「イスラム国」はテロの元凶ではない』(集英社新書)。最新刊は『シャティーラの記憶――パレスチナ難民キャンプの70年』
ツイッターは @kawakami_yasu

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

プーチン大統領、経済の一部セクター減産に不満 均衡

ワールド

プーチン氏、米特使と和平案巡り会談 欧州に「戦う準

ビジネス

次期FRB議長の人選、来年初めに発表=トランプ氏

ビジネス

ユーロ圏インフレは目標付近で推移、米関税で物価上昇
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:日本時代劇の挑戦
特集:日本時代劇の挑戦
2025年12月 9日号(12/ 2発売)

『七人の侍』『座頭市』『SHOGUN』......世界が愛した名作とメイド・イン・ジャパンの新時代劇『イクサガミ』の大志

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    大気質指数200超え!テヘランのスモッグは「殺人レベル」、最悪の環境危機の原因とは?
  • 2
    トランプ支持率がさらに低迷、保守地盤でも民主党が猛追
  • 3
    海底ケーブルを守れ──NATOが導入する新型水中ドローン「グレイシャーク」とは
  • 4
    若者から中高年まで ── 韓国を襲う「自殺の連鎖」が止…
  • 5
    「世界一幸せな国」フィンランドの今...ノキアの携帯…
  • 6
    もう無茶苦茶...トランプ政権下で行われた「シャーロ…
  • 7
    【香港高層ビル火災】脱出は至難の技、避難経路を階…
  • 8
    22歳女教師、13歳の生徒に「わいせつコンテンツ」送…
  • 9
    人生の忙しさの9割はムダ...ひろゆきが語る「休む勇…
  • 10
    7歳の息子に何が? 学校で描いた「自画像」が奇妙す…
  • 1
    インド国産戦闘機に一体何が? ドバイ航空ショーで墜落事故、浮き彫りになるインド空軍の課題
  • 2
    【最先端戦闘機】ミラージュ、F16、グリペン、ラファール勢ぞろい ウクライナ空軍は戦闘機の「見本市」状態
  • 3
    7歳の息子に何が? 学校で描いた「自画像」が奇妙すぎた...「心配すべき?」と母親がネットで相談
  • 4
    100年以上宇宙最大の謎だった「ダークマター」の正体…
  • 5
    【クイズ】次のうち、マウスウォッシュと同じ効果の…
  • 6
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるよ…
  • 7
    128人死亡、200人以上行方不明...香港最悪の火災現場…
  • 8
    【寝耳に水】ヘンリー王子&メーガン妃が「大焦り」…
  • 9
    【銘柄】関電工、きんでんが上昇トレンド一直線...業…
  • 10
    子どもより高齢者を優遇する政府...世代間格差は5倍…
  • 1
    東京がニューヨークを上回り「世界最大の経済都市」に...日本からは、もう1都市圏がトップ10入り
  • 2
    一瞬にして「巨大な橋が消えた」...中国・「完成直後」の橋が崩落する瞬間を捉えた「衝撃映像」に広がる疑念
  • 3
    「不気味すぎる...」カップルの写真に映り込んだ「謎の存在」がSNSで話題に、その正体とは?
  • 4
    【クイズ】本州で唯一「クマが生息していない県」は…
  • 5
    【写真・動画】世界最大のクモの巣
  • 6
    高速で回転しながら「地上に落下」...トルコの軍用輸…
  • 7
    「999段の階段」を落下...中国・自動車メーカーがPR…
  • 8
    まるで老人...ロシア初の「AIヒト型ロボット」がお披…
  • 9
    「髪形がおかしい...」実写版『モアナ』予告編に批判…
  • 10
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるよ…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story