コラム

ロンドン暴動から10年、イギリスにもう1つの分断が

2021年06月29日(火)16時00分

ややこしいのは、警察の主張どおり「ダガンが射殺される前に銃を出した」かどうかが、明らかではないことだ。警察による致死的な武力行使は、「命にかかわる脅威」があった場合にのみ認められている。数々の検視や法医学的分析が行われたが、確実な答えは出なかった。

ダガンが逃走しようとして直前に銃を投げ捨てた可能性もあるが、銃に彼のDNAは付着しておらず、真相は不明だ。ダガンの家族や支援者に言わせれば、そこには「隠蔽」の気配がする。その後、彼の名前はメディアで取り上げられ続け、マーク・ダガンに正義を、とうたう運動が今も続いている。近年のBLM(ブラック・ライブブズ・マター=黒人の命は大事)運動でも、警官に殺された黒人男性として彼が担ぎ上げられている。

だがほとんどのイギリス人にとっては、ダガンの慌ただしい最期の瞬間に何があったのか、その正確な詳細が何より重要なポイントというわけではない。彼は違法な武器を持ったギャングだったのだ。彼は警察に追われていることを知っていた。彼はタクシーから飛び降り、逃走しようとした。もしも彼が両手を高く上げて投降していたら、死ぬことはなかっただろう。彼が射殺されたことは残念だが、暴動を正当化したり警察権力の弱体化が必要になるほどの「許しがたい不正義」だったとは決して言えない。

この話のもう1つ奇妙なところは、ダガンの友人たちや家族が口々に彼を「家族思いの男」「献身的な父親」(そして「シャイ」)だったと主張していることだ。だが彼はイングランド中間層が思い描く「家族思いの男」とは程遠い。29歳にしてダガンには3人の違う女性(いずれとも結婚していない)との間に5人の子供がいた。ダガンの死後、4人目の女性(死亡時のダガンの「恋人」とはまた別の女性)との間に6人目の子供も誕生した。この手のややこしい「家族」はロンドンの住宅団地ではよくあることだ。そんな環境の中でダガンが「献身的な父親」に見えた理由は、彼がいつも「各子供たちの誕生日をちゃんと覚えていたから」らしい。

イギリスには明らかに大きな経済的・社会的分断が存在する。若年層の失業率が高い住宅団地の地区の向こうにはとんでもない富裕層が住んでいる、というようなロンドンでは、その対比は最もあからさまだ。でもダガンのケースのように、もう1つの著しい分断は認識の分断だろう。同じ人物を見ても、人によって完全に違った受け止め方をしてしまうということ――ある人には警察の横暴の犠牲になった家族思いの男に見え、ある人にとっては無法者で無責任な女たらしに見えるのだ。

プロフィール

コリン・ジョイス

フリージャーナリスト。1970年、イギリス生まれ。92年に来日し、神戸と東京で暮らす。ニューズウィーク日本版記者、英デイリー・テレグラフ紙東京支局長を経て、フリーに。日本、ニューヨークでの滞在を経て2010年、16年ぶりに故郷イングランドに帰国。フリーランスのジャーナリストとしてイングランドのエセックスを拠点に活動する。ビールとサッカーをこよなく愛す。著書に『「ニッポン社会」入門――英国人記者の抱腹レポート』(NHK生活人新書)、『新「ニッポン社会」入門--英国人、日本で再び発見する』(三賢社)、『マインド・ザ・ギャップ! 日本とイギリスの〈すきま〉』(NHK出版新書)、『なぜオックスフォードが世界一の大学なのか』(三賢社)など。

あわせて読みたい
ニュース速報

ビジネス

豊田織機の非公開化報道、トヨタ「一部出資含め様々な

ビジネス

中国への融資終了に具体的措置を、米財務長官がアジア

ビジネス

ベッセント長官、日韓との生産的な貿易協議を歓迎 米

ワールド

アングル:バングラ繊維産業、国内リサイクル能力向上
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:独占取材 カンボジア国際詐欺
特集:独占取材 カンボジア国際詐欺
2025年4月29日号(4/22発売)

タイ・ミャンマーでの大摘発を経て焦点はカンボジアへ。政府と癒着した犯罪の巣窟に日本人の影

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 2
    中国で「ネズミ人間」が増殖中...その驚きの正体とは? いずれ中国共産党を脅かす可能性も
  • 3
    トランプ政権の悪評が直撃、各国がアメリカへの渡航勧告を強化
  • 4
    健康寿命は延ばせる...認知症「14のリスク要因」とは…
  • 5
    アメリカ鉄鋼産業の復活へ...鍵はトランプ関税ではな…
  • 6
    関税ショックのベトナムすらアメリカ寄りに...南シナ…
  • 7
    ロケット弾直撃で次々に爆発、ロシア軍ヘリ4機が「破…
  • 8
    ロシア武器庫が爆発、巨大な火の玉が吹き上がる...ロ…
  • 9
    ビザ取消1300人超──アメリカで留学生の「粛清」進む
  • 10
    パニック発作の原因の多くは「ガス」だった...「ビタ…
  • 1
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 2
    「生はちみつ」と「純粋はちみつ」は何が違うのか?...「偽スーパーフード」に専門家が警鐘
  • 3
    「スケールが違う」天の川にそっくりな銀河、宇宙初期に発見される
  • 4
    【クイズ】「地球の肺」と呼ばれる場所はどこ?
  • 5
    女性職員を毎日「ランチに誘う」...90歳の男性ボラン…
  • 6
    教皇死去を喜ぶトランプ派議員「神の手が悪を打ち負…
  • 7
    『職場の「困った人」をうまく動かす心理術』は必ず…
  • 8
    自宅の天井から「謎の物体」が...「これは何?」と投…
  • 9
    「100歳まで食・酒を楽しもう」肝機能が復活! 脂肪…
  • 10
    トランプ政権はナチスと類似?――「独裁者はまず大学…
  • 1
    【話題の写真】高速列車で前席のカップルが「最悪の行為」に及ぶ...インド人男性の撮影した「衝撃写真」にネット震撼【画像】
  • 2
    健康寿命を伸ばすカギは「人体最大の器官」にあった...糖尿病を予防し、がんと闘う効果にも期待が
  • 3
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い国はどこ?
  • 4
    【心が疲れたとき】メンタルが一瞬で “最…
  • 5
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる…
  • 6
    間食はなぜ「ナッツ一択」なのか?...がん・心疾患・抜…
  • 7
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」では…
  • 8
    自らの醜悪さを晒すだけ...ジブリ風AIイラストに「大…
  • 9
    北朝鮮兵の親たち、息子の「ロシア送り」を阻止する…
  • 10
    【クイズ】世界で最も「半導体の工場」が多い国どこ…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story