コラム

イラクがこんな時期に「酒禁止法」可決の謎

2016年10月27日(木)20時40分

もともと酒の禁止とは関係ない法律だった

 さて、話をイラクのアルコール禁止に戻そう。北東部では政府軍やクルド人のペシュメルガ部隊、シーア派の民兵組織がテロ組織イスラーム国(IS)からモスルを奪還すべく戦っているというのに、そもそもなぜこんな法律が国会に出されたのだろう。実は、この法律は名前を「地方自治体収入法」といい、酒の禁止とは関係ない法律だったのである。そのなかに酒屋や酒を供するレストランに課税するという条文があったのだが、いつの間にかそれが酒の全面禁止に代わっていたのだという。法案を提出していたのは与党ダァワ党(シーア派)などの連合体である法治国家連合に属するシーア派イスラーム法学者マフムード・ハサン議員だといわれているが、背後ではやはりシーア派のイスラーム美徳党が動いていたとの報道もある。

【参考記事】モスル奪還作戦、逃げるISISを待ち受けるのは残虐なシーア派民兵

 世俗的なバァス党政権が倒れて、シーア派政権が成立して以降、イラク国内で酒を供するバーやレストランの評判は悪くなる一方で、実際、一時期酒の販売が非合法されたこともあった(その後復活)。それどころか、こうしたバーは、宗派にかぎらず、頻繁にテロの標的にもなっていたのである。イスラーム系の政党からみれば、酒の禁止は悲願であり、イスラーム的に正しいことの、わかりやすい象徴でもあった。実際、このたびの法案成立後、批判の対象にもなったように、本気で議論をはじめると、深刻な憲法論議にもなりかねない。だから、モスル近郊でドンパチやっているドサクサに紛れて、しれっと条文を書き換えたという感じだろうか?

 この法律でもっとも影響を受けるのは、キリスト教徒であろう。イラクの場合、イスラームでは酒が禁止されているので、酒に携わる職業の多くをキリスト教徒が担ってきたからだ。この法律が適用されれば、今まで酒関連の仕事に従事していたキリスト教徒は失業してしまう可能性もある。実際、キリスト教徒の議員は、法律がイスラーム以外の少数派の信仰の自由を保障した憲法に違反していると強く非難している。一方、シーア派側は、憲法第2条の「いかなる法律もイスラームに反してはならない」という規定を盾に、酒の販売を禁止するのは合憲だと主張する。キリスト教議員は連邦裁判所に訴えるといっているが、はたしてどうなるのか。

 実は同じイスラームであってもイラク北部のクルディスタン地域では状況が異なる(とはいえ、酒が売られているのはクルディスタンでもキリスト教地区が中心)。ここには独自の自治政府、議会があり、しかも、外国からの投資を積極的に誘致していることから、中央の議会での酒禁止には反対する声が大きい。イラク国内で比較的安全とされるクルディスタンには多くの欧米ビジネスマンが集まっており、数少ない息抜きとしてアルコールは重要な意味をもつからだ。自治政府の高官は「クルディスタンには自身の議会があり、(酒禁止法を)施行することはない。(法律は)クルディスタンには影響しない。中央政府はもっと重要なことに集中すべきだ」と述べている。

プロフィール

保坂修司

日本エネルギー経済研究所中東研究センター研究顧問。日本中東学会会長。
慶應義塾大学大学院修士課程修了(東洋史専攻)。在クウェート日本大使館・在サウジアラビア日本大使館専門調査員、中東調査会研究員、近畿大学教授、日本エネルギー経済研究所理事・中東研究センター長等を経て、現職。早稲田大学客員上級研究員を兼任。専門はペルシア湾岸地域近現代史、中東メディア論。主な著書に『乞食とイスラーム』(筑摩書房)、『新版 オサマ・ビンラディンの生涯と聖戦』(朝日新聞出版)、『イラク戦争と変貌する中東世界』『サイバー・イスラーム――越境する公共圏』(いずれも山川出版社)、『サウジアラビア――変わりゆく石油王国』『ジハード主義――アルカイダからイスラーム国へ』(いずれも岩波書店)など。

あわせて読みたい
ニュース速報

ビジネス

12月FOMCでの利下げ見送り観測高まる、モルガン

ビジネス

米シカゴ連銀総裁、前倒しの過度の利下げに「不安」 

ワールド

IAEA、イランに濃縮ウラン巡る報告求める決議採択

ワールド

ゼレンスキー氏、米陸軍長官と和平案を協議 「共に取
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:世界も「老害」戦争
特集:世界も「老害」戦争
2025年11月25日号(11/18発売)

アメリカもヨーロッパも高齢化が進み、未来を担う若者が「犠牲」に

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「髪形がおかしい...」実写版『モアナ』予告編に批判殺到、そもそも「実写化が早すぎる」との声も
  • 2
    高速で回転しながら「地上に落下」...トルコの軍用輸送機「C-130」謎の墜落を捉えた「衝撃映像」が拡散
  • 3
    【銘柄】イオンの株価が2倍に。かつての優待株はなぜ成長株へ転生できたのか
  • 4
    ロシアはすでに戦争準備段階――ポーランド軍トップが…
  • 5
    幻の古代都市「7つの峡谷の町」...草原の遺跡から見…
  • 6
    アメリカの雇用低迷と景気の関係が変化した可能性
  • 7
    「まじかよ...」母親にヘアカットを頼んだ25歳女性、…
  • 8
    【クイズ】中国からの融資を「最も多く」受けている…
  • 9
    EUがロシアの凍結資産を使わない理由――ウクライナ勝…
  • 10
    東京がニューヨークを上回り「世界最大の経済都市」…
  • 1
    東京がニューヨークを上回り「世界最大の経済都市」に...日本からは、もう1都市圏がトップ10入り
  • 2
    高速で回転しながら「地上に落下」...トルコの軍用輸送機「C-130」謎の墜落を捉えた「衝撃映像」が拡散
  • 3
    「999段の階段」を落下...中国・自動車メーカーがPR動画撮影で「大失態」、遺跡を破壊する「衝撃映像」にSNS震撼
  • 4
    「髪形がおかしい...」実写版『モアナ』予告編に批判…
  • 5
    一瞬にして「巨大な橋が消えた」...中国・「完成直後…
  • 6
    【銘柄】ソニーグループとソニーFG...分離上場で生ま…
  • 7
    【写真・動画】「全身が脳」の生物の神経系とその生態
  • 8
    筋肉の正体は「ホルモン」だった...テストステロン濃…
  • 9
    まるで老人...ロシア初の「AIヒト型ロボット」がお披…
  • 10
    「まじかよ...」母親にヘアカットを頼んだ25歳女性、…
  • 1
    【クイズ】本州で唯一「クマが生息していない県」はどこ?
  • 2
    東京がニューヨークを上回り「世界最大の経済都市」に...日本からは、もう1都市圏がトップ10入り
  • 3
    英国で「パブ離れ」が深刻化、閉店ペースが加速...苦肉の策は「日本では当たり前」の方式だった
  • 4
    一瞬にして「巨大な橋が消えた」...中国・「完成直後…
  • 5
    「不気味すぎる...」カップルの写真に映り込んだ「謎…
  • 6
    【クイズ】ヒグマの生息数が「世界で最も多い国」は…
  • 7
    【写真・動画】世界最大のクモの巣
  • 8
    高速で回転しながら「地上に落下」...トルコの軍用輸…
  • 9
    【クイズ】クマ被害が相次ぐが...「熊害」の正しい読…
  • 10
    「999段の階段」を落下...中国・自動車メーカーがPR…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story