リベラルは何故こんなにも絶望しているのか~「保守」にあって「リベラル」に無いもの
事程左様に、「民主国家のルールを平然と無視する政権を有権者が結果的に信任し続けていることへの絶望」は、21世紀に入って突如として起こった事ではない。実は、戦後の日本政治の中で常に繰り返されてきた歴史である。今更になって、「絶望した」というのは、私からすると奇異に感じる。ロッキード疑獄を以てしても自民党政権が続いたときの絶望の方が、よほど比較的に絶望の度合いが濃い。野党が弱いのは、冒頭で述べた通りに、「自民党の中にメタ的な野党構造がある」からで、今に始まった事ではない。なぜこんなにも簡単にリベラルは世論から「拒否された」と思い込み、「リベラルの不寛容さがこの状況を招いた」と自虐するのか。短慮に過ぎると思う。
今こそマックス・ウェーバーに学ぶべき
おそらくリベラルは、2009年の劇的な政権交代(麻生自民党から鳩山民主党へ)の成功体験が忘れられないのだろう。1993年における細川連立内閣は、その政権交代劇の首魁である小沢一郎氏、細川護熙氏、羽田孜氏らが揃いも揃って元自民党議員であったように、自民党Aと自民党A´(ダッシュ)の分裂であり、狭義の意味での政権交代とは程遠い。そういった意味では、真に「55年体制の崩壊」が達成されたのは2009年の民主党鳩山内閣成立であったとすることもできる。しかしリーマンショック・東日本大震災などの時代的背景のため、鳩山→菅→野田と続いた民主党政権は3年強で瓦解した。
現在のリベラルは、この鳩山政権誕生時代の政権交代の成功体験を引きずっているが、それは日本の戦後政治史の中で極めて特異な事象であったとするよりほかない。なぜ一度の「挫折」で「リベラルはまちがっていたのではないか。不寛容に過ぎたのではないか」と自虐する理由になるのか。
マックス・ウェーバーはその不朽の名著『職業としての政治』の中で次のように書く。
"政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である。もしこの世の中で不可能事を目指して粘り強くアタックしないようでは、およそ可能なこの達成も覚束ないというのは、まったく正しく、あらゆる歴史上の経験がこれを証明している。(中略)自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が―自分の立場からみて―どんなに愚かであり卑俗であっても、断じて挫けない人間。どんな事態に直面しても、「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職」を持つ。(マックス・ウェーバー著、『職業としての政治』,脇圭平訳,岩波書店,強調筆者)
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