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『仮面ライダー BLACK SUN』──「非暴力という欺瞞」を暴く問題作
そうはいっても、『仮面ライダー BLACK SUN』のラストが少年兵の育成であるのは(少年兵なのは意図的な描写だろう)、視聴者にグロテスクな印象を抱かせる。また、抑圧的な暴力と解放のための暴力の差は紙一重なものでしかない。『BLACK SUN』のラストでも、首相が主張する戦争ための暴力のロジックと、葵が主張する解放のためのロジックは意図的に似通ったものにされている。
反差別闘争に突き付けられた課題
『BLACK SUN』の物語では結局、「人間も怪人も命の重さは地球以上。1グラムだって違いはない」というヒューマニズムは、非暴力の側とは結びつきえなかった。井垣や堂波のようなダーティーワークを担っている抑圧者がいることを知っていて、「つやつやした顔」をしながら、その隣で融和を唱えることは欺瞞になるだろう。葵にとっては、本当のヒューマニズムは、構造的な差別から解放されるための暴力の中にしか見出しえなかったのだ。
『地に呪われたる者』の序文で、フランスの哲学者サルトルは次のように書いている。「今やヒューマニズムは素っ裸だ。おまけにちっとも美しくない。それは欺購のイデオロギー、まことに見事な強奪の正当化に他ならなかった。(中略)もし暴力が今夜初めて開始されたもので、かつて地上には搾取も圧制も存在しなかったというのならば、あるいは非暴力の看板をかかげて紛争を鎮めることができるかもしれない。ところがもし体制全体が、そして君たちの非暴力思想までが、一千年にわたる圧制によって規定されているならば、受身の態度は君らを圧迫者の側につけるだけなのである」
差別は構造的な暴力として存在している。井垣や堂波は差別構造の鉄砲玉にすぎない。彼らがいなくなっても差別は続く。井垣率いるヘイターは怪人をリンチして殺す。しかしこの作品の射程は、それに見て見ぬふりをする一般市民や、取り締まりをするどころか逆にカウンター側の怪人に暴力を振るう警察の責任も問うている。だから葵は画面の向こうから、行動することを強く呼びかける。
この作品では、葵の闘争の結末までは描かれていない。暴力闘争は反差別運動を解決に導くためのサタンサーベルであるとはこの物語は主張していない。
『BLACK SUN』の結末を受け入れらない者は、構造的な暴力を放置することの欺瞞に気づかなければならない。暴力行使の責任を当事者に押し付けず、「人間も怪人も命の重さは地球以上。1グラムだって違いはない」という言葉を、非暴力的なヒューマニズムの側に取り戻すためには何をすべきかを真剣に考えるということだ。それが葵の突き付けたメッセージに応えることなのだ。
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