コラム
東京に住む外国人によるリレーコラムTOKYO EYE
ニューヨークのラーメンで味わう真正・東京文化
今週のコラムニスト:マイケル・プロンコ
研究休暇を使って先日まで滞在していたニューヨークで、タイムズスクエア近くを歩いていたときのこと。私の目に、おなじみの赤い提灯とタバコをくゆらすサラリーマンたちの姿が飛び込んできた。ラーメン屋だ!
私は鼻をクンクンさせ、欲求にかられながらまっすぐにあの「どんぶり」を目指した。
東京を離れて半年が経ち、私は日本のラーメンが恋しくてたまらなくなっていた。ラーメンは、ピザやフライドポテトや中華料理のように簡単に国境を越えられる料理ではない。だからニューヨークで食べる日本のラーメンは貴重なご馳走なのだ。
対照的に、一般的な中華料理はとっくの昔からニューヨークの生活に溶け込んできた。中華はもはや異国のものでもなければエキゾチックなものでもなく、「日常の料理」だ。
ニューヨーク中にあふれる「中華と和食のデリバリー」レストランは、単にお手軽なだけで、異文化体験ができる場所ではない。ついでに言うと、この場合の「和食」は中華と抱き合わせて名乗っているだけ。ニューヨーカーが中華料理の出前を頼むときに中国や中国の文化について考えることはない。あまりにも当たり前になり過ぎて、今では日常生活の一部になってしまった。
日本もそれに追いつこうとしているようだ。マンハッタンには、食欲をそそられないこんな看板がある――「デリ&ホットフード&サンドイッチ&フレッシュ・スシ」。カピカピに乾いたご飯の上に変色したぺちゃんこの魚が乗っている「スシ」を(よりによって)コーラと一緒に食すのは、素晴らしき異文化交流からは程遠い。私はニューズウィークにコラムを書くためなら喜んで多くの犠牲を払うが、それでもサンドイッチメーカーで作ったスシだけは勘弁してほしい。
だがスシとは違い、ラーメンを配達するのは難しいし手間がかかる。そのおかげで、ニューヨークのラーメンはラーメンらしさを失わずにいられるかもしれない。
■感慨深げにラーメンをすするニューヨーカー
日本の味にとどまらず、ニューヨーカーたちは東京そのものにも興味津々だ。彼らにとって東京という都市は、地球の反対側に遠く生き別れたいとこのようなもの。私が「東京に住んでいる」と言おうものなら、ニューヨーカーはすぐに私を日本文化の「通訳」に仕立て上げようとする。つまり、日本の内側をのぞき見させてくれるドアマンの役割をさせようとするのだ。
彼らからは矢継ぎ早にこんな質問が飛ぶ。「日本の電車は時間どおりに走るんでしょ?」「日本人はどうしてあんなにシャイなの」「道を歩いていても安全なんですよね」。東京では、この逆を質問されるのだが。
本当のところ、ニューヨーカーは「私と」話したいのではないらしい。東京について聞きたいのだ。ショックなことだが、私自身はどうやら東京ほど興味深い存在ではないらしい!
ニューヨークには、日本文化への憧憬を正しく、素晴らしい形で表現しているものだってちゃんとある。小津安二郎監督の初期の作品を上映するブルックリン・フィルムフェスティバルや、デザイナーが手掛けるフトン、美術館に飾られている日本の作品などは、正真正銘の日本文化だ。
だがラーメンは、こうした作品のように簡単に置き換えができない。だからだろうか、私はラーメンに芸術よりも奥深いエキゾチックさを感じてしまう。
私が訪れたラーメン店は、多くの外国人・・・・・・いや、つまりはニューヨーカーたちで溢れ返っていた。彼らは私とはまったく違う理由でその店を訪れている。映画の中でラーメンを目にしたとか、アニメファンのサイトで読んだとか、日本に行ったことがあるからとか。ラーメンそのものの異国情緒を味わいに来たニューヨーカーもいるようだ。彼らは無頓着に中華料理を頬張るのとは違って、ゆっくりと、静かに、感慨深げに日本のラーメンをすすっていた。
■異文化を「自らの手で」再現する東京人
ニューヨーカーと東京人が異文化を経験したり再現したりするやり方には、かなりの違いがある。ニューヨークには異文化を再現できる「外国人」が既に移り住んでいるが、東京人は「自らの手で」再現するために外国に行って修行し、東京に帰って学んだことを再形成する。
ニューヨークでは、「異国風」が売れるのなら同じ店で和食と中華を両方出しても全くかまわない。だが東京では、本場の物を完璧に再現することこそが目標になることが多い。どちらの都市でも、その方法がいつもうまくいくとは限らない。それでも、東京で見かけるアメリカンフードの完璧なコピーも、ニューヨークのファストフード風スシも、どちらも異文化を理解するための最初の一歩なのかもしれない。
東京人は異文化に触れる時、それがより正確で分かりやすく、純粋な形であって欲しいと思っている。ニューヨーカーは、異文化体験をエキサイティングなものにしたがる。どちらの都市も、遠い国の本物の文化を追い求めている。しかも、ごく身近で手に入れられるものを。
それには、がっかりさせられることだってつきものだろう。私だって、落胆させられることもあるかもしれない。現実の文化体験というのは、パッと荷造りしてフェデックスで国際宅配、というわけにはいかない。文化の意味合いは変化もすれば歪むこともある。異文化体験には、いつも何かが欠けている。東京のケチャップが甘過ぎて、ニューヨークのわさびに風味が足りなすぎるように。
「ニューヨーク・ラーメン」は「北海道味噌ラーメン」や「九州豚骨ラーメン」と肩を並べることは到底できないだろうが、それでもとてもおいしかった。制服姿で変てこな髪型をした近くの日本人学校の男子高校生グループや、日本人の女性数人、日本人旅行者か移住者といった人々が何組か入ってきて、音を立てて正しくラーメンをすするのを見て、私も割り箸を割って我が家のような居心地の良さをかみ締めた。
タイムズスクエアのラーメン店に腰掛けて目を閉じた私は、『オズの魔法使い』のドロシーの赤い靴(かかとを鳴らせば好きな場所に連れて行ってくれる)の代わりに割り箸をパチンと合わせて、自分に言い聞かせた。「おうちが一番、おうちが一番」――。そしてしばらくの間、私は東京の行き付けのラーメン店を思い浮かべ、本物の東京を遠い彼方に味わった。
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