コラム

ジョブズ再療養に凍りつくシリコンバレー

2011年01月18日(火)19時13分

 アップルCEO、スティーブ・ジョブズが再びのメディカル・リーブ(療養休暇)に入ったニュースは、やはりアップルのこれからを懸念する議論を引き起こしている。

 ジョブズの療養休暇は、2004年以来3回めだ。最初は、膵臓ガンの手術。一時は回復したかに見えたが、その数年後ますます痩せていくジョブズの姿に、人々の疑問が高まった。本人はホルモンのアンバランスで栄養が吸収できないとしていたが、その後2009年に突然療養休暇入りに。

 その時は、体調はもっと複雑になっていたと本人が語ったが、後になって実は肝臓移植を受けていたことがわかった。ジョブズが患っていたタイプの膵臓ガンは完全に摘出されなかった場合、肝臓に転移する可能性が高いという。

 そして今回の発表だ。否が応にも再発したのかという疑いが持たれるのだがアップル側は、ジョブズが「健康回復に専念する」と社員に送った6センテンスのメール以上に発表することは何もないの一点張り。アメリカのニュースメディアもそろって、ジョブズの病状についてそれ以上の憶測を記事にすることを慎んでいる状態だ。

 公開企業としてCEOの健康状態を明らかにするのはルールではないのかという表向きの議論はあるものの、ことジョブズに関しては非常に神妙な空気がメディア界を覆っているようにも見える。もちろん、株価を大きく動かすジョブズの健康状態について、証拠もなくヘタな発言はできないという注意深さもあるだろう。

 だが、ガンという病気の深刻さや、ジョブズという存在の大きさ、そしてこれまでアップルがあらゆる場面でとってきた秘密主義などのすべてが作用して、報道メディアを麻痺状態に陥れているようにも見えるのだ。

 シリコンバレーの空気も同様である。元気な時には、ジョブズは崇拝と同時に攻撃の対象だが、病気になると人々は何かを怖れたようになる。希有なビジョナリーであり、天才的経営者であるジョブズがもしいなくなるようなことになったら、現在のシリコンバレーの全体が変わらざるを得ないからだ。
 
 考えてみれば、ジョブズはアメリカの大衆に「美しい製品」を浸透させた。アップルを追い出されたジョブズが1996年に再びアップルに戻ってから、iMac、iPod、iPhone、マックブックエア、iPadと次々と美しい製品を世に出してきた。もちろんジョブズは創設時から製品の審美的な価値に気を使ってきたが、1996年以降のジョブズの違いはそれを「売れる製品」としてもプロデュースできたことだ。

■安物買いのアメリカ人を美に目覚めさせた

 それによって、安物買いのアメリカの大衆は美しい製品に目を開かされたと言っても、決して過言ではないと思う。それまでのアメリカ人の判断基準は、ともかく「プライス」。アメリカ人は1セントでも高いものを買わされると、自分の頭が悪いためにだまされて悔しいという感情を持つ人がほとんどだ。そんな彼らに、プライス以外の価値観を植え付けた貢献はかなり大きい。

 その価値観によって、現在のシリコンバレーもかなりの恩恵を受けている。製品の美しさはもとより、ユーザー・インターフェイスの明確さや使いやすさ、インターネットとコンテンツとコンピュータがコネクトする際のスムーズさ、ウェブサイトやブラウザーなどのすっきりした使い勝手、そもそも異なった複数のデバイスがシンクロするといったことまで含めて、これらは、アップルが牽引することによって発展してきた技術革新だ。ただの多機能性や速さだけではない製品のあり方は、純粋にエンジニア志向の世界からは生まれなかっただろう。

 もしジョブズがいなくなれば、求心力の不在がシリコンバレー全体に及ぼす影響は決して小さくない。彼ほど多面的な才能を駆使して、このテクノロジー世界を操縦できる人材はそうは簡単に見つからないだろう。

 だがその一方で、ジョブズの療養休暇が、アップルがあらかた新製品を出し切り、ちょうど階段の踊り場のような間隙にある時に起こるというタイミングにも不運なものを感じる。つまり、ここまで息を切るようにして画期的な新製品を発表してきたアップルの、この先のロードマップがやや見えにくくなっているからだ。もっと小さいiPad? あるいはもっと薄いマックブックエア? だがそれらは漸進的な改良であって、革命的な製品ではないだろう。しかも、スマートフォンにしてもタブレットにしても、競合他社がちょうどアップルに追いついてきたところだ。

 才能と製品とタイミング。スティーブ・ジョブズの療養休暇のニュースに、人々は今、あらゆる角度からテクノロジー世界のあり方に思いを巡らせているはずである。

プロフィール

瀧口範子

フリーランスの編集者・ジャーナリスト。シリコンバレー在住。テクノロジー、ビジネス、政治、文化、社会一般に関する記事を新聞、雑誌に幅広く寄稿する。著書に『なぜシリコンバレーではゴミを分別しないのか? 世界一IQが高い町の「壁なし」思考習慣』、『行動主義: レム・コールハース ドキュメント』『にほんの建築家: 伊東豊雄観察記』、訳書に『ソフトウェアの達人たち: 認知科学からのアプローチ(テリー・ウィノグラード編著)』などがある。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

アングル:フィリピンの「ごみゼロ」宣言、達成は非正

ワールド

イスラエル政府、ガザ停戦合意を正式承認 19日発効

ビジネス

米国株式市場=反発、トランプ氏就任控え 半導体株が

ワールド

ロシア・イラン大統領、戦略条約締結 20年協定で防
MAGAZINE
特集:トランプ新政権ガイド
特集:トランプ新政権ガイド
2025年1月21日号(1/15発売)

1月20日の就任式を目前に「爆弾」を連続投下。トランプ新政権の外交・内政と日本経済への影響は?

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「拷問に近いことも...」獲得賞金は10億円、最も稼いでいるプロゲーマーが語る「eスポーツのリアル」
  • 2
    【クイズ】世界で1番マイクロプラスチックを「食べている」のは、どの地域に住む人?
  • 3
    轟音に次ぐ轟音...ロシア国内の化学工場を夜間に襲うウクライナの猛攻シーン 「ATACMSを使用」と情報筋
  • 4
    【クイズ】次のうち、和製英語「ではない」のはどれ…
  • 5
    「搭乗券を見せてください」飛行機に侵入した「まさ…
  • 6
    ティーバッグから有害物質が放出されている...研究者…
  • 7
    ドラマ「海に眠るダイヤモンド」で再注目...軍艦島の…
  • 8
    「ウクライナに残りたい...」捕虜となった北朝鮮兵が…
  • 9
    北朝鮮兵が「下品なビデオ」を見ている...ロシア軍参…
  • 10
    雪の中、服を脱ぎ捨て、丸見えに...ブラジルの歌姫、…
  • 1
    ティーバッグから有害物質が放出されている...研究者が警告【最新研究】
  • 2
    体の筋肉量が落ちにくくなる3つの条件は?...和田秀樹医師に聞く「老けない」最強の食事法
  • 3
    睡眠時間60分の差で、脳の老化速度は2倍! カギは「最初の90分」...快眠の「7つのコツ」とは?
  • 4
    メーガン妃のNetflix新番組「ウィズ・ラブ、メーガン…
  • 5
    轟音に次ぐ轟音...ロシア国内の化学工場を夜間に襲う…
  • 6
    北朝鮮兵が「下品なビデオ」を見ている...ロシア軍参…
  • 7
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるよ…
  • 8
    「拷問に近いことも...」獲得賞金は10億円、最も稼い…
  • 9
    ドラマ「海に眠るダイヤモンド」で再注目...軍艦島の…
  • 10
    【クイズ】世界で1番マイクロプラスチックを「食べて…
  • 1
    ティーバッグから有害物質が放出されている...研究者が警告【最新研究】
  • 2
    大腸がんの原因になる食品とは?...がん治療に革命をもたらす可能性も【最新研究】
  • 3
    体の筋肉量が落ちにくくなる3つの条件は?...和田秀樹医師に聞く「老けない」最強の食事法
  • 4
    夜空を切り裂いた「爆発の閃光」...「ロシア北方艦隊…
  • 5
    インスタント食品が招く「静かな健康危機」...研究が…
  • 6
    ロシア軍は戦死した北朝鮮兵の「顔を焼いている」──…
  • 7
    TBS日曜劇場が描かなかった坑夫生活...東京ドーム1.3…
  • 8
    「涙止まらん...」トリミングの結果、何の動物か分か…
  • 9
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるよ…
  • 10
    「戦死証明書」を渡され...ロシアで戦死した北朝鮮兵…
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story