コラム
酒井啓子中東徒然日記
サウディ王政のジレンマ
アラブ連盟が、意外な動きをしている。
リビアで反カッザーフィ・デモが始まると、わずか数日後には政権の暴力的鎮圧を非難、リビアの連盟資格停止を決めたばかりか、NATOの軍事介入もすんなり容認した。
空気を読まないカッザーフィが以前からアラブ連盟で「浮いた」存在だったせいもあって、こうしたリビアに対する対応になったのだろうが、続くシリアへの対応を見れば、その意外さが続いていることがわかる。8月にはシリアでのデモ隊鎮圧を非難する決議が出され、11月には資格の停止と対シリア制裁が決定された。
なぜそれらの動きが「意外」かといえば、1950年代以降長らくアラブ連盟は、シリアやリビアなど、アラブ民族主義を起源に持つ共和制諸国によって主導されてきたからである。1979年、イスラエルとの単独和平に走って連盟を追放されたエジプトのように、アラブ民族主義の大義から離れたことで非難されることはあったが、今そのアラブ民族主義政権の本家本元が槍玉に挙げられているのは、隔世の感がある。
さらには、アラブ連盟は20年前の湾岸戦争の際クウェート支持かイラク支持で分裂、以降まとまりを失っていたが、リビアとシリアの件では一部棄権はあったものの、激しい対立はなかった。アラブ連盟が20年ぶりにまとまったのが、「強権政治反対、暴力的弾圧反対」だったというわけである。
本当か?? 本気でそう考えているのだろうか、加盟国は??
なにより驚くのは、サウディアラビアがシリア批判を展開していることである。王政と一党独裁、親米と反米と、その政策は正反対とはいえ、サウディとシリアは水面下で密な関係を維持してきた。王族の多くはシリア人女性を妻に迎えていたりする。
そもそも、反政府運動を力で押さえつけるという点では、程度の差はあれ、サウディも同じだ。3月、隣国バハレーンにサウディ軍を送り込んで反王政デモを鎮静化させたのは、記憶に生々しい。サウディこそが、「アラブの春」の進行を恐れる守旧派の大ボスなのだ。なのに、なぜ簡単にシリアの現政権を見捨てる方針を取ったのか。
欧米メディアの間では、最近のサウディとイランの対立が影響している、との見方がある。バハレーンでの反王政デモ以来湾岸王政諸国は、自国のシーア派住民の政治化がイランの地域覇権拡大につながる、と危惧してきたが、10月に発覚したイラン特殊部隊関係者によるものとされる駐米サウディ大使暗殺未遂事件が、対イラン危険視に拍車をかけた。加えて11月末には、サウディ東部でシーア派住民のデモが発生、4人の死者が出ている。
サウディがシリアのアサド政権を見限ったのは、そのイランと密接な関係を持つからだといわれる。スンナ派中心の他のアラブ諸国には、シーア派の一種である少数派のアラウィ派によって牛耳られている政権が、多数派のスンナ派住民を弾圧している、とも見える。
だがそれ以上に、サウディが「アラブの春」の勢いをひしひしと感じているということなのだろう。国外の民主化を支える姿勢を示して、自政権の強権的性格を覆い隠し、国内で政権批判が高まらないようにしたい。6年ぶりに地方評議会選挙を実施したり、次回の選挙では女性の参政権を認めるとの発言をしたり、一定の改革姿勢を示すことに腐心しているのも、そのためだろう。
そうした小手先での対応は、湾岸戦争やイラク戦争後、繰り返し行われてきた。果たして今回もその程度で済むかどうか。サウディ王政の頭の痛いところである。
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