しかし私たちはそこでふと立ち止まる。待てよ、この「神聖さ」は私たちが意図したものと正反対ではなかろうか。私たちは「コモナー」だ。階級分断を認めつつも良しとせず、あわよくばその分断を噛み砕いてやれと虎視眈々とメシを作り食らうコレクティヴである。
だとしたら、あまりにも張り詰めた空気はむしろ人を寄せつけず、誰にでも開かれてあるべき「コモン」どころか、排他的な仕掛けになってはいないかと。
「コモン」とは無所有ということではない。
例えばイギリスの田園に張り巡らされた散歩道(footpath)。その道は誰かの所有地を縦横無尽に横断してどこまでも歩くことができる。牧草地を横切り、裏庭を突っ切り、池や貯水池の周りを辿るその道では、歩行者は出て行けとは言われない。
人が歩くときだけ私的所有が中断されるのである。歩くことによって、歩いている間だけ、所有権が宙に浮くとでも言おうか。
レシピを読んで読者が「作りたく」なってくれるのは歓迎だが、本書が目指すところはまずもって「作るためではなく、考えるためのレシピ」。
レシピのページの醸し出す「神聖さ」が、「こんなの難しすぎて作れん」というように、かえって「考える」ことすら遠ざけてしまっているとすれば、それはないほうがましだ。
「神聖」すぎると人は遠ざかる。これではいけない。アクセスも解釈も自由にできる、それぞれのやり方でそれぞれが勝手に作り食べることができる、そういうものでなければ、私たちの意図とは真逆に読まれてしまう。そんな不安にふと襲われたことがあった。
しかしその不安は間違っていると気が付いた。レシピこそが「コモン」ではないか、そう考えるに至ったからだ。
ただそこに「コモン」としてのレシピがある。もし本書のレシピが「神聖」だとしたら、その「神聖さ」は、限られた人だけが限られた場所でしか味わえない「礼拝価値」にではなく、誰にもアクセスできる「展示価値」に基づくものだからだ。
模倣可能性こそが、レシピを「コモン」たらしめているのである。
扉の奥で鎮座ましまして誰の目にも触れさせてもらえない秘仏が「神聖」なのではなく、たとえば通天閣のビリケンさんのように、誰彼となく触られツルツルスベスベになってもなおそこで皆に開かれているものこそが「神聖」なのではないか。
本書のレシピにはどんどん触っていただきたい。好きなようにいじっていただきたい。「神聖さ」と世俗性は同居する。むしろ同居してこその「神聖さ」である。