アステイオン

思想

崩れゆく文明と知識人の役割...『アステイオン』が論じてきたこと

2024年11月13日(水)11時00分
佐伯啓思(京都大学 人と社会の未来研究院特任教授)
思想と文明

Mysticsartdesign-pixabay


<今にして思えば、80年代には、戦後日本を支配してきた思想的風景が、その社会状況の変化とともに大きく変質していた...。『アステイオン』の100号より「崩れゆく文明と知識人の役割」を転載>


『アステイオン』とのつながりは幸運な偶然から始まった。というのも、『隠された思考』と題する本でサントリー学芸賞(思想・歴史部門)を受賞したのが1985年、そのすぐ後にこの『アステイオン』の創刊が決まったからである。

編集長の粕谷一希さんから、「思想時評」を書いてみては、という要請があり、恐る恐る引き受けた。いや有無など言わせないという感じであった。

私自身は、もともと時論・時評などにはきわめて疎いたちで、実は『隠された思考』に続いて、経済学や社会学を中心に「市場論」「貨幣論」「自由論」「国家論」など、思想的な検討をじっくりと行おうと思っていた。

やるべきことは目の前に広がっていた。80年代とは、アメリカのレーガン大統領の登場によって新自由主義が台頭し、市場と国家の関係の再構築・再検討に突入した時代でもあり、その背景のもとに、新たな経済社会論の構築を目指すというのが、私の当時の野望であり、目論見でもあった。

『アステイオン』は、私のこの目論見を見事に砕いてくれたわけである。1986年から87年にかけて、計6回にわたる「思想時評」は、もはや、経済学どころか、社会科学のどこかに安住の場を確保するという専門研究者への道をまったく閉ざしてしまったからだ。

そのことはたいへんな幸運であったと思う。「思想」とは、自分の内にある形にはならない思いをこの現実に突き合わせて形にする試みといってよかろう。それゆえ「思想時評」とは、その時々の現実と内なる思考の確執を論じる、ということである。

要するに、「現実」を思想的に論じ、また「思想」を現実によって検討する、という試みである。そのような作業がどうやら私には向いていたようである。「思想時評」の後、結局、私は、様々な雑誌、新聞メディアから同様の依頼を受けることになり、それは今にいたるまで続いている。その端緒を開いてくれたのがこの雑誌であった。

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