仙台城跡にある伊達政宗公騎馬像 beeboys-shutterstock
毎日新聞に入社3年目の02年、青森支局員だったとき、東京で「沖縄反基地運動連帯」をかかげる団体を取材した。
取材後の雑談で「米軍三沢基地や使用済み核燃料再処理施設を抱える青森の立場は、沖縄に似ている」と言うと、相手は「考えたこともなかったです。沖縄と違って、青森はなんだか、かっこ悪いですしねえ」。
「かっこ悪い」――。あまりに率直すぎる言葉に、愕然とするよりも納得させられた。私も東北を「かっこ悪い」と思ってきた。だからこそ、ちょうど30年前の春、大学進学を期に、出身地である東北・仙台を逃げ出した。東日本大震災の、あの津波が来るよりもはるか前に。
私は「かっこ悪い」東北出身である。と同時に東北から逃げて、結果として震災からも逃げ得た。その自分が後ろめたく、震災の死者に罪責意識を感じる。
実はこの、福島県出身の高橋哲哉の言葉を借りれば「理屈以前の感覚」(『犠牲のシステム 福島・沖縄』)を、抱えてきた。そんな自分をどう扱えばよいのか困っている。
だから特に東日本大震災以降、赤坂憲雄、河西英道、山内明美の各氏らによる「東北学」や東北史の本をひもといてきた。その延長上で読んだのが、昨年出た呉叡人『フォルモサ・イデオロギー』(みすず書房、2023年、梅森直之・山本和行訳)だ。
この本の副題は「台湾ナショナリズムの勃興 1895-1945」。日本植民地時代に、かの地の人々が「自分たちは中国人でも日本人でもなく、台湾人である」という意識を育んだ過程を描く。ポイントは、その過程を戦前の日本が編入した他の周辺諸地域との比較で論じたこと。
小熊英二『<日本人>の境界』(1998年)など、似たネタを扱う議論は他にもある。ただ、私の故郷・東北も同じ地平に含めたものは、本書が初めてではないか。ちょっと、うれしかった。
1962年生まれの呉は、ベネディクト・アンダーソンの下で学んだ台湾の政治学者で、2014年の「ひまわり学生運動」などに影響を及ぼした人物である。
この本は、戦前日本の植民地主義の特徴を、編入した周縁部を臣民の最下位へ置いて同化、言いかえれば「日本人」化させる<差別的包摂>だとする。
同化は、言語や文化、制度など多岐にわたるが、イコール平等化ではない。そもそも天皇を家長とした「家族国家」の臣民は、平等ではない。
日本の植民地獲得は、近代国民国家の形成と同時進行でもあった。本書の第2章は、冒頭でふたつの小説を引用している。
vol.101
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