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国際政治学は、基本的には国家をアクターとする学問である、と学部生以来教わってきたし、自分が講義するときもそう教えてきた。とりわけ、国際関係論の中心的位置を占めてきたリアリズムの理論(リアリズム内の多様性にはここでは踏み込まない)は、国家を単一のアクターとみなし、その力のバランスで戦争をはじめとした多くの国際上の事件を説明してきた。
リアリズムを批判する国際政治学者も少なくないが、それでもリアリズムが中心的な考え方であることを前提として、その修正を唱えてきた。現下のロシア・ウクライナ戦争(以下ロ・ウ戦争)は基本的にはこのリアリズムの考え方の妥当性を補強するように見える。まさに国家間で戦争をしているのだから当然でもある。
それでも、広い意味での国際関係の研究者(ここでは私のような地域研究者も含む)は、今回のロ・ウ戦争には驚かされたし、既存の考え方に再考を迫っている。『アステイオン』97号の特集「ウクライナ戦争──世界の視点から」の多くの論考は、私には、国際政治学者がどのように再考しているのかを知る手掛かりになった。
ウェルチ、廣瀬、中西の論考は、国際政治における個人の役割を重視すべきであった、という。特にこの戦争に関していうとロシア大統領プーチンの世界観や個性が大きな役割を果たした、と考えられている。
確かに、2021年7月に発表された「ロシア人とウクライナ人の歴史的一体性」論文などに示されたプーチンの世界観は、ウクライナに対する特別な執着を見せており、ロシアのウクライナへの全面侵攻の思想的な背景を成したとみられている。例外はいるが、私を含めた多くの研究者はこの特有な思想の要素をそれほど重視してこなかった。
もっとも、プーチンの個性自体は、これまでも多くの研究者によって論じられてきた。特に外交政策においては、プーチンは合理主義者として解釈されてきた。
すなわち、19世紀的な大国中心的な世界観に基づいて、国益を追求し、アメリカ一極集中ではない多極世界の構築を目指している指導者として描かれることが多かった。合理主義的な指導者であるからこそ、軍事的には非合理で冒険主義的なウクライナへの全面侵攻をしないと考えられてきた。
私は、ある時期まではこのようなプーチン像は説得的だったと今でも考えている。とすると、指導者の役割を軽視した、というよりも、指導者の可変性に関して我々は認識の間違いを犯したのかもしれない。
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