コラム

食塩には甘味も隠されている? 「塩化物イオン」の役割と塩の味にまつわる多様な研究

2023年03月28日(火)13時00分

岡山大グループは2017年に、メダカの実験を通して、甘味やうま味を感じる「鍵穴(味覚受容体)」の立体構造を明らかにしました。今回はこの構造をさらに詳しく調べたところ、鍵(味物質)となるアミノ酸が結合する鍵穴のすぐ近くに、何か別の物質が結合している鍵穴があることが分かりました。

そこで、放射光施設のSPring-8(兵庫県佐用町)と フォトンファクトリー(茨城県つくば市)で立体構造を解析したところ、鍵穴に結合しているのは塩化物イオンであることが分かりました。しかもこの塩化物イオン用の鍵穴は、甘味受容体とうま味受容体の共通の構成要素にあり、ヒトを含むほとんどの動物が持つことも分かりました。

甘味やうま味の受容体では、鍵穴に鍵となる味物質が結合すると構造が変化し、この変化が引き金となって味の情報が体内に伝えられると考えられています。メダカでの実験では、塩化物イオンが結合しても、同様の構造変化が起きていました。つまり、甘味受容体に塩化物イオンが結合すると、甘味の情報が体内に伝わると示唆されます。

食塩の甘さに気づきにくい理由

もっとも、味覚の動物実験が難しいのは、実験動物は「甘い」「塩辛い」などと話してくれないことです。そこで研究グループはマウスを使って、塩化物イオンが甘味受容体を介して甘味に関する神経応答を引き起こし、味覚として感知していることを確かめました。

塩化物イオンが甘味受容体や味神経に対して作用を引き起こす濃度は、ナトリウムイオンが塩味受容体に感知される濃度の数分の1と低く、60年前の実験で「ヒトがなぜか甘味を感じる薄い食塩水」の濃度とほぼ同じでした。実際に、マウスはただの水よりも薄い塩化物イオンを含む水を好んで飲み、好ましい味と知覚していることが示唆されました。

なお、塩化物イオンが引き起こす甘味はショ糖などより弱く、食塩濃度が高くなると塩味受容体が感知する塩味の方を強く感じて甘味が隠される現象が起こるため、通常の使用では食塩の甘さに気づきにくくなっていると考えられます。

研究グループは、「海水のような高濃度の塩水は『おいしくない』と感じて塩分の過剰摂取を避けるのに対して、薄い塩水は『おいしい味』として感知されて体に必要なミネラルを補給する。今回、薄い塩水で塩化物イオンの味覚に対する作用が分かったことは、健康維持に重要な食塩の味覚感知を理解する上で、新たな知見を与える」と述べています。

プロフィール

茜 灯里

作家・科学ジャーナリスト。青山学院大学客員准教授。博士(理学)・獣医師。東京大学理学部地球惑星物理学科、同農学部獣医学専修卒業、東京大学大学院理学系研究科地球惑星科学専攻博士課程修了。朝日新聞記者、大学教員などを経て第24回日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞。小説に『馬疫』(2021 年、光文社)、ノンフィクションに『地球にじいろ図鑑』(2023年、化学同人)、ニューズウィーク日本版ウェブの本連載をまとめた『ビジネス教養としての最新科学トピックス』(2023年、集英社インターナショナル)がある。分担執筆に『ニュートリノ』(2003 年、東京大学出版会)、『科学ジャーナリストの手法』(2007 年、化学同人)、『AIとSF2』(2024年、早川書房)など。

あわせて読みたい
ニュース速報

ビジネス

米肥満薬開発メッツェラ、ファイザーの100億ドル買

ワールド

米最高裁、「フードスタンプ」全額支給命令を一時差し

ワールド

アングル:国連気候会議30年、地球温暖化対策は道半

ワールド

ポートランド州兵派遣は違法、米連邦地裁が判断 政権
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:高市早苗研究
特集:高市早苗研究
2025年11月 4日/2025年11月11日号(10/28発売)

課題だらけの日本の政治・経済・外交を初の女性首相はこう変える

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    【写真・動画】世界最大のクモの巣
  • 2
    「遺体は原型をとどめていなかった」 韓国に憧れた2人の若者...最悪の勘違いと、残酷すぎた結末
  • 3
    「路上でセクハラ」...メキシコ・シェインバウム大統領にキスを迫る男性を捉えた「衝撃映像」に広がる波紋
  • 4
    「座席に体が収まらない...」飛行機で嘆く「身長216c…
  • 5
    「不気味すぎる...」カップルの写真に映り込んだ「謎…
  • 6
    クマと遭遇したら何をすべきか――北海道80年の記録が…
  • 7
    『プレデター: バッドランド』は良作?駄作?...批評…
  • 8
    【銘柄】元・東芝のキオクシアHD...生成AIで急上昇し…
  • 9
    なぜユダヤ系住民の約半数まで、マムダニ氏を支持し…
  • 10
    長時間フライトでこれは地獄...前に座る女性の「あり…
  • 1
    【クイズ】本州で唯一「クマが生息していない県」はどこ?
  • 2
    「不気味すぎる...」カップルの写真に映り込んだ「謎の存在」がSNSで話題に、その正体とは?
  • 3
    【写真・動画】世界最大のクモの巣
  • 4
    9歳女児が行方不明...失踪直前、防犯カメラに映った…
  • 5
    「日本のあの観光地」が世界2位...エクスペディア「…
  • 6
    【クイズ】クマ被害が相次ぐが...「熊害」の正しい読…
  • 7
    だまされやすい詐欺メールTOP3を専門家が解説
  • 8
    【クイズ】ヒグマの生息数が「世界で最も多い国」は…
  • 9
    「遺体は原型をとどめていなかった」 韓国に憧れた2…
  • 10
    虹に「極限まで近づく」とどう見える?...小型機パイ…
  • 1
    【クイズ】本州で唯一「クマが生息していない県」はどこ?
  • 2
    英国で「パブ離れ」が深刻化、閉店ペースが加速...苦肉の策は「日本では当たり前」の方式だった
  • 3
    【クイズ】ヒグマの生息数が「世界で最も多い国」はどこ?
  • 4
    「不気味すぎる...」カップルの写真に映り込んだ「謎…
  • 5
    1000人以上の女性と関係...英アンドルー王子、「称号…
  • 6
    かばんの中身を見れば一発でわかる!「認知症になり…
  • 7
    悲しみで8年間「羽をむしり続けた」オウム...新たな…
  • 8
    【写真・動画】世界最大のクモの巣
  • 9
    【クイズ】クマ被害が相次ぐが...「熊害」の正しい読…
  • 10
    【クイズ】日本でツキノワグマの出没件数が「最も多…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story