最新記事

ラジオ

失われたBBCの「自由の声」

世界中の抑圧された人々に希望を与えてきた外国語放送の大幅な事業縮小でイギリスが失うもの

2011年5月24日(火)14時01分
ピーター・ポメランツェフ(英テレビプロデューサー)

発信地 BBCワールドサービスが入るブッシュハウス(64年) Reg Speller-Fox Photos/Getty Images

 それは祖父の秘密であり、誰にも内緒の儀式だった。と同時に、世界中の何百万人もの人々がやっている儀式でもあった。

 70年代、祖父はソ連構成国ウクライナのキエフにある小さなアパートで、大勢の親戚と暮らしていた。皆が寝静まった真夜中、祖父はこっそりと起き出して、台所にあったトランジスタラジオのスイッチを入れる。

 たちまちザーッという雑音が聞こえる。急いでチャンネルを短波放送に合わせ、アンテナの向きをいじったり、椅子やテーブルに上ってラジオの位置を変えて、音声が一番クリアに聞こえる場所を探した。それから祖父はスピーカーに耳を押し当てて、チャンネルを調節した。

 東ドイツのポピュラー音楽。これじゃない。ソ連の軍楽隊が奏でるマーチ。これでもない。やがてジーッとかバチバチという音に交じって、魔法の言葉が聞こえてきた。「BBCロシア語放送。ロンドンは現在、午後10時を回ったところです」

 ロシア語なのに落ち着いたトーンで語られるその言葉は、この世界のどこかにもっと自由で、もっとましな場所があるという希望を祖父に与えた。それはBBCワールドサービスが、30以上の言語で世界中の人々に伝えてきたメッセージでもある。

 多くの人々にとって、BBC(英国放送協会)の外国向け放送を聴くのは危険な行為だった。秘密警察がいつ家のドアをたたいてもおかしくない。それでも危険を冒す価値はあった。

 今年3月末、英政府の予算削減のあおりを受けて、BBCの外国語放送の多くが終了に追い込まれた。ロシア語放送も、ヒンディー語、中国語、トルコ語、ベトナム語、アゼルバイジャン語、キューバ系スペイン語、アフリカ系ポルトガル語、セルビア語、アルバニア語、マケドニア語の放送もなくなった。

 これによって週間リスナー数は3000万人減る。一部の言語はウェブサイトやポッドキャストで発信を続けるが、その効果は限定的だ。ロシアのようにかなり開発が進んだ国でも、ポッドキャストで音声を聞けるほどの高速インターネットに接続している人は、人口の20%程度にすぎない。

 イギリスはそれでいいのか。失うものがあるのではないか。

サッチャーからの「伝言」

 個人的な思い入れから、私はその問いに中立的な答えを出すことができない。父は70年代の終わりに赤ん坊だった私を連れてソ連を脱出。ヨーロッパ各地を放浪した末に、BBCロシア語放送の仕事を得た。

 学校が休みになると、父は私を職場に連れて行ってくれた。ロンドンのストランド街にあるブッシュハウスという建物だ。子供だった私には何もかもが驚きだった。父がスタジオに入ってしまうと、私はすぐに各階をうろつき始めた。

 大きな階段を降りていくと、さまざまな肌の色と民族が交ざり合い、いろいろなアクセントの英語が飛び交っていた。忙しくタイプを打つ音にたばこの煙、最新ニュースを持って走り回るスタッフ。編集はオープンリール・テープで行われ、不要な部分は小さなカッターで切り取られた。

 私はよく、切り落とされたテープを拾い集めた。テープの端で手が切れても平気だった。ごみ箱に捨てられる「声」を救うのだと、使命感に燃えたものだ。

 ブッシュハウスの住民たちは、同じ戦争を戦う同志のようなものだった。偉大な詩人や後に閣僚になる人物もいた。彼らがプラハやモスクワ、テヘラン、サイゴン、ハバナ、そしてワルシャワに向けて発信する言葉に、祖国の人々は必死に耳を傾けた。

 父は、チェコスロバキアの反体制派作家バツラフ・ハベル(後のチェコ大統領)の劇をロシア語放送で流した。ポーランド語放送は一時期、グダニスクで生まれた自主管理労働組合「連帯」の指導者レフ・ワレサ(後のポーランド大統領)について報じるために、ほとんどの時間を費やした。

 91年8月、ソ連の最高指導者だったミハイル・ゴルバチョフが、休暇先のクリミア半島で反改革派に軟禁された。だがゴルバチョフは、BBCロシア語放送を通じて世界とつながっていた。父は急いで、マーガレット・サッチャー英首相(当時)にインタビューを申し込んだ。

 だが事務官は、「(サッチャーは)電話インタビューには応じない」と言う。父は「『あなたの友人ミハイルが殺されそうだ』と伝えてください」と食い下がった。こうしてサッチャーは電話インタビューに応じた。いや、インタビューというより、友人ゴルバチョフに宛てた「私はあなたを決して見捨てない」というメッセージだった。

 大英帝国はもはや存在しなかったが、イギリスは知的な意味ではまだ帝国だった。BBCの外国語放送はリスナーの言語で発信されるが、その内容は極めてイギリス的。鉄のカーテンの向こう側の単調で退屈な「御用放送」とは違い、多様な見解と鋭い論争を紹介し続けた。

損をするのはイギリス

 その影響は今も見られる。ロンドンに移住したロシア人富豪マラトがいい例だ。彼ほどの財力があればどんな楽園にも住めたのに、マラトはロンドンを選んだ。ロシア南部の工業都市に育った彼は、ベッドに寝転がってマリフアナを吹かしながらBBCロシア語放送を聴いていた。

 お目当てはカルト的な人気を誇ったセバ・ノブゴロゼフの音楽番組だ。ほとんどのイギリス人は名前も知らないが、ノブゴロゼフはイギリスが誇る宝の1つだ。彼がベルリンの壁崩壊に果たした役割は、ゴルバチョフやサッチャーにも劣らない。

 ノブゴロゼフが流したオルタナティブロックは、若きマラトがコムソモール(共産主義青年同盟)に反抗的態度を取ったとき、あるいは初めて数百㌦を手にしたとき、彼の頭の中で流れていた音楽だ。マラトはマリフアナでもうろうとした頭で、イギリスが永久に自分の一部であり続けることを理解していた。

 現代のイギリス人は、ノブゴロゼフの番組によって大きな恩恵を受けている。リスナーはいつかイギリスに住み、子供にイギリス国籍を取得させ、イギリス経済に投資したいと考え、やがてそれを実行する。おかげでイギリスは、彼らの祖国に投資することができる。こうした関係は少なからずBBCの外国語放送によって培われた。

 今は独裁者がいる国にも、さまざまなラジオ番組や新しいメディアがある。だから「ロンドン時間」の終了によってリスナーが受ける傷は小さい。むしろ損をするのはイギリスだ。

 祖父が魔法の言葉を聞いた場所にチャンネルを合わせても、今はガーガーという雑音しか聞こえてこない。イギリスは世界に向けた声を失いつつある。そして歴史の中でも取るに足りない存在になろうとしている。

[2011年4月20日号掲載]

今、あなたにオススメ

関連ワード

ニュース速報

ビジネス

米ワーナー、パラマウントの買収案拒否の公算 17日

ビジネス

FRBの追加利下げ、インフレリスク高める可能性=ア

ワールド

トランプ氏支持率39%に低下、経済政策への不満広が

ビジネス

ファイザー、26年1株利益見通し予想に届かず 「今
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:教養としてのBL入門
特集:教養としてのBL入門
2025年12月23日号(12/16発売)

実写ドラマのヒットで高まるBL(ボーイズラブ)人気。長きにわたるその歴史と深い背景をひもとく

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    日本がゲームチェンジャーの高出力レーザー兵器を艦載、海上での実戦試験へ
  • 2
    人口減少が止まらない中国で、政府が少子化対策の切り札として「あるもの」に課税
  • 3
    【実話】学校の管理教育を批判し、生徒のため校則を変えた校長は「教員免許なし」県庁職員
  • 4
    ミトコンドリア刷新で細胞が若返る可能性...老化関連…
  • 5
    「住民が消えた...」LA国際空港に隠された「幽霊都市…
  • 6
    「勇気ある選択」をと、IMFも警告...中国、輸出入と…
  • 7
    【人手不足の真相】データが示す「女性・高齢者の労…
  • 8
    FRBパウエル議長が格差拡大に警鐘..米国で鮮明になる…
  • 9
    空中でバラバラに...ロシア軍の大型輸送機「An-22」…
  • 10
    【衛星画像】南西諸島の日米新軍事拠点 中国の進出…
  • 1
    日本がゲームチェンジャーの高出力レーザー兵器を艦載、海上での実戦試験へ
  • 2
    人口減少が止まらない中国で、政府が少子化対策の切り札として「あるもの」に課税
  • 3
    【衛星画像】南西諸島の日米新軍事拠点 中国の進出を睨み建設急ピッチ
  • 4
    デンマーク国防情報局、初めて米国を「安全保障上の…
  • 5
    【銘柄】資生堂が巨額赤字に転落...その要因と今後の…
  • 6
    ミトコンドリア刷新で細胞が若返る可能性...老化関連…
  • 7
    【実話】学校の管理教育を批判し、生徒のため校則を…
  • 8
    【クイズ】「100名の最も偉大な英国人」に唯一選ばれ…
  • 9
    香港大火災の本当の原因と、世界が目撃した「アジア…
  • 10
    中国軍機の「レーダー照射」は敵対的と、元イタリア…
  • 1
    東京がニューヨークを上回り「世界最大の経済都市」に...日本からは、もう1都市圏がトップ10入り
  • 2
    日本がゲームチェンジャーの高出力レーザー兵器を艦載、海上での実戦試験へ
  • 3
    高速で回転しながら「地上に落下」...トルコの軍用輸送機「C-130」謎の墜落を捉えた「衝撃映像」が拡散
  • 4
    日本人には「当たり前」? 外国人が富士山で目にした…
  • 5
    「999段の階段」を落下...中国・自動車メーカーがPR…
  • 6
    人口減少が止まらない中国で、政府が少子化対策の切…
  • 7
    【銘柄】オリエンタルランドが急落...日中対立が株価…
  • 8
    「髪形がおかしい...」実写版『モアナ』予告編に批判…
  • 9
    日本の「クマ問題」、ドイツの「問題クマ」比較...だ…
  • 10
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるよ…
トランプ2.0記事まとめ
Real
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中