「モデル国家」スイスの終焉
難民も秘密資金もオープンに受け入れ、冷戦終結のきっかけを提供した中立国──そんなスイスのイメージが急落している
神話崩壊 スイスの誇りだった秘密厳守の名門銀行も今は昔(写真は08年10月、チューリヒのプラーデ広場で銀行幹部の高額報酬に抗議する人々) Arnd Wiegmann-Reuters
「500年間の民主主義と平和は何を生み出した?鳩時計さ」。映画『第三の男』で、オーソン・ウェルズはそう言ってスイスを嘲笑する。
もちろん実際は違う。20世紀のスイスは熟練した労働力と充実した道路・鉄道網を擁し、極めて効率的な経済と社会を築いていた。
同時にこのアルプスの小国は、もっと深遠な価値観を象徴していた。スイスではさまざまな民族と言語と宗教、農民と銀行家と技術者が独自の形で融合し、ほかの国なら分裂につながる要素を比較的うまく調和させていた。
世界経済フォーラムの年次総会がダボスで開催されるのは偶然ではない。スイスは長い間、グローバル化の推進派にとってモデル国家の役割を果たしてきた。
スイスという国は、経済面では規制を撤廃して税金を低く抑える一方、政治面では法の統治に基づく活力ある民主主義を実現しているように見えた。1917年のロシア革命と33年のナチス・ドイツ政権成立の後、スイスは共産主義やナチズムから逃れてくる人々を真っ先に受け入れた。この寛容さ故にジュネーブは代表的な国際都市となり、国際連盟や国際赤十字、後には国連の主要機関がこぞって本部を置いた。
第二次大戦中のスイスは自由のとりでだった。ウィンストン・チャーチルは大戦終結後の46年にチューリヒで演説を行い、ヨーロッパの統合を訴えた。50~60年代には、スイスはいくつもの平和条約の調印場所となった。
スイスは冷戦ともEU(欧州連合)の欠点とも無縁の中立国として自らを売り込んだ。ロナルド・レーガンとミハイル・ゴルバチョフが85年にジュネーブで行った米ソ首脳会談は冷戦終結のきっかけとなった。スイスは世界が解決策を探しに来る場所だった。
しかし今では、スイスの都市はどこも薄汚れ、列車は遅れ、幹線道路はいつも工事中だ。政治家は偏狭な言動が目立つ。かつて自由のとりでだった国で、大衆を扇動する排外主義勢力が(飛び切りの大金持ちを除く)よそ者を締め出す運動を繰り広げている。