「人間関係の希薄さに救われることがある」これだけの理由
ネットワークの密度の高さは常にプラスに働くのか?
例えば、あなたを中心とするネットワークを考えてみよう。あなたの知人であるA、B、Cは、あなたとの間にリンクを持っていることになる(あなたを中心とするネットワークの定義である)。それだけでなく、AとBの間、BとCの間などにも、直接のリンクは存在するとしよう。こうしたリンクが多いほど、あなたのネットワークは、「密度が高い」と表現される。
田舎と都市の社会を比較すると分かりやすい。田舎では、同じ地域で生活する人々同士は、相互に面識があることが多い。あなたの取引先は、あなたの友人のお兄さんかもしれない。あなたの職場の上司は、あなたの父親の元同級生かもしれない。こうした状態は、ネットワークの密度が高いと表現される。
これに対して都市では、同じマンションに暮らす隣人でさえ、お互いのことはほとんど知らないということがしばしばある。あなたの職場の同僚と友人、あるいはあなたの趣味の友達と兄弟とは、接点が全くないことが多いだろう。こうした状態が、ネットワークの密度が低いと表現される。
密度をこのように捉えたとき、密度が高いネットワークで暮らす方が、密度が低いネットワークで暮らすよりも幸福であるというのが、古典的な議論であった。田舎のように密度が高いネットワークは、コミュニティとして個人を包み込み所属感を与えてくれる。これに対して、都市によく見られる密度の低いネットワークでは、住民が生活を送る様々な場が全体として一つのコミュニティであるとはなかなか思えないだろうし、確たる所属感も得にくいだろう。「昔ながらのコミュニティの崩壊」は、こうした文脈でも嘆かれてきた。
例えばジョセフ・ストークス(1985)が大学生を対象に行った調査によれば、自分を中心とするネットワークの密度が高いほど孤独を感じにくかった。友人の数が多い(ネットワークのサイズが大きい)ことや、親しい友人が沢山いることよりも、ネットワークが高い密度を持ち一つのコミュニティとして機能することの方が、孤独感を防ぐ効果があったのである。
では、ネットワークの密度は高い方が常によいのだろうか? 浦光博(1992)は複数の研究をレビューし、「そうではない」と考えた。
例えば、バートン・ハーシュ(1980)は、若い未亡人と、既婚で大学に復学したばかりの女性を対象に、ネットワークの構造的特徴と現在の生活への適応の度合いの関係を検討した。すると、ネットワークの密度が低いほど、周囲の人々から提供されるソーシャル・サポートに満足していたのである。また2つのネットワークの連結の度合いを「境界密度」と呼ぶが、核家族のネットワークと友人関係のネットワークの境界密度が低い、つまり友人に夫や子どもとは無関係な人々が多いほど、周囲からのソーシャル・サポートに満足しまた精神的に健康であったことも示された。
こうした人々は、大きな生活の変化を経験し、新しい役割や活動を獲得する必要に迫られている。そうした人にとっては、密度や境界密度が低いネットワークの方が、柔軟な選択を受け入れ手助けしてくれるというわけだ。