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タリバン独白まで超厳選
タリバン8年間の真実
第2章 敗北の衝撃から戦闘再開
ハーン ムラーたちはふさぎ込むようになった。私の父親も同じだ。タリバン時代は大きな影響力を持っていたのに、今は前ほど敬われない。父は動揺し、脳卒中を起こして体の一部が麻痺してしまった。02年末、アフガニスタン警察が村のモスクを強制捜査した。村人のところへ父を引きずっていって「おまえはタリバンの協力者だ」と責め、タリバンの武器庫はどこだと聞いた。警察は父を侮辱し、刑務所に入れた。父は70歳だった。
モスクの信者が警察ヘ行って抗議した。数カ月前、父に背を向けたはずの人々が父を助けてくれた。警察が靴を履いたままモスクに入り、年老いて体が不自由なムラーを逮捕したのは恥ずべきことだと、彼らは言った。03年前半、父は死んだ。
私はまだ子供だったが、警察に2度も逮捕された。尋問では、くだらないことをいろいろ聞かれた。「タリバンはどこだ?」とか「どこに武器を隠している?」とか。家族がバイクを売ってつくった金を払い、私は釈放された。警察は地元の90歳のムラーも逮捕し、侮辱して手荒く扱った。村の雰囲気が変わり始めた。モスクやムラーに敬意を払わない警察や当局者への怒りが芽生えていた。
ユーナス 初めのうち、アフガン人は反撃しようと言わなかった。アラブ人が「諦めるな」とアフガン人や地元部族を励ました。1年間ほどは大した動きがなかったが、その後アラブ人が訓練キャンプを設立し始めた。最初に耳に入ったのは、ワナに近いシンワルサク村にできたキャンプのことだ。マドラサが休みのときに行ってみるとすごいところだった。アラブ人が運営する施設と、チェチェン人とウズベク人が運営する施設があった。マドラサで学んだから、私はアラビア語が話せる。おかげでエジプトやサウジアラビア、リビアからキャンプに来た男たちと親しくなった。
ネク・モハンマド・ワジル(親タリバン派のパキスタン北西部ワジリスタンの部族長。04年6月、米軍の攻撃により死亡)が訓練キャンプ用の土地や武器を提供していた。キャンプのアラブ人は周辺の幹線道路や町を自由に行き来していて、警戒する様子はまったくなかった。私は学校をやめて抵抗活動に参加しようと決めた。
モハンマド タリバン政権の終わりが、ジハード(聖戦)戦士としての人生の始まりだった。父が94年に亡くなった後、私は母ときょうだいの面倒を見なければならず、(タリバンの最高指導者ムハマド・)オマル師の(タリバン政権樹立へ向けた)戦いに参加できなかった。長い間、ジハードを戦わなかったことに良心の呵責を覚えていた。
タリバン政権が崩壊した後、私が指導者を務めるペシャワルのモスクに、多くの負傷したタリバン兵が姿を見せるようになった。信者のなかには、なぜ彼らのように戦わなかったのかと私を問いただす人もいた。
戦いに参加しなかった償いをしなければならないと思った。タリバン兵は今も活動を続けているのかと聞いて回ったが、誰もはっきりした答えをくれない。ある日、(米軍に対する)抵抗活動に加わっていたアジズラというアフガン人青年の噂を聞いた。彼は今、アフガニスタンの刑務所に服役しているんだが......。
私はアジズラの家へ行き、米軍への抵抗活動が計画されているなら協力したいと言った。彼は、自分はただの貧しい男でジハードとは何の関係もないと嘘をついた。別の日、モスクへ行く途中の彼を見掛け、一緒に歩いた。相変わらずためらっていたが、しまいにはワジリスタンにある戦闘員養成キャンプのことを教えてくれ、紹介状も書いてくれた。
ハッカニ 03年前半、私は家族と共にペシャワルの近くにある貸家へ引っ越した。自分たちだけの家に住むのは01年以来だった。私は再び、ムラーの白い服を着るようになった。その家に、タリバン政権の国防相だったオバイドゥラー(・アーフンド。07年2月、パキスタン当局が拘束)が訪ねてきた。政権崩壊以来、タリバン幹部の仲間に会うのは初めてだった。オバイドゥラー師は散り散りになった自軍を再結集するため、パキスタン国内を巡っていた。2週間後に会おうと言われ、ある住所を教わった。
その日、その場所に集まった人の数と顔触れには驚いた。かつての上級大臣も軍司令官もいる。誰もが米軍への抵抗意欲に燃えていた。オバイドゥラー師は私にこう言った。「次官としての君は必要ない。できるだけ多くの戦闘員を戦場へ送り込んでくれ」
アフンドザダ ある日、1人の男が野菜を買いに来た。アフガニスタン北部で何年も戦いを共にしたムラーだった。彼も私が誰だか気付き、これからどうするつもりだと聞いた。ずっとジャガイモ売りをする気か、それともジハードに戻るのか、と。毎月2000ルピー(33ドルに相当)ほど稼げる商売だから文句はなかったが、私はまた戦いたかった。
別の晩、ムラーと一緒にペシャワルの近くで開かれた集会に参加した。そこで誰に会ったと思う?(北部戦線で戦っていた当時の)ダドゥッラー(・アーフンド)上官(07年5月に戦死)だ! ダドゥッラー師は憧れの人だった。われわれにとって彼の名前は「勝利」と同義だった。
それから半年ほどたった頃、指令を受けて(北ワジリスタンの)ミランシャーへ行った。ダドゥッラー師もアフタル・モハンマド・オスマニ(ウサマ・ビンラディンの側近でタリバン政権高官。06年12月に戦死)も、オバイドゥラーも来ていた。各司令官がかつての部下を捜し集め、故国での戦闘再開の準備を進めることが決まった。
私はクエッタへ送られた。私の部隊の生き残りがそこへ移り住んでいた。あの頃は400人の部下がいたが、クエッタにいたのは15人。彼らは私を喜んで迎えてくれ、侵略者から解放するため祖国に戻るという計画に賛成した。われわれは北ワジリスタンで訓練を行い、装備を整え、戦闘員を集めた。戦闘再開の準備だ。
モハンマド 弟に家族を託し、南ワジリスタンへ向かった。山奥の村のモスクにたどり着くと、アジズラの紹介状を読んだムラーが、さらに奥地にある秘密の場所へ案内してくれた。武装した男たちがいる検問所があり、地元の住民も入れない場所だった。そこにはサウジアラビアやイエメンから来たアラブ人が20〜30人、チェチェン人やアフガン人が数人いた。彼らは疑い深く、暴力的な態度で私を尋問した。
アラブ人の上官に長いこと話を聞かれた。一番知りたがっていたのは、私がオマル師のジハードに参加しなかった理由だ。数時間後、彼らの司令官(でアルカイダの生化学兵器専門家の)アブ・ハバブ(・アルマスリ。08年7月、米軍の攻撃で死亡)に紹介された。彼は私を歓迎してくれた。なぜこの戦いに参加したいのか、自分に何ができると思うかと聞いてきた。
キャンプの近くの山には、ひと握りのアラブ人戦闘員しか登ることを許されなかった。そこに、幹部の大半が住んでいた。アブ・ハバブのほかに、アブ・ライス・アルリビ(アルカイダのナンバー3とされたゲリラ戦専門家。08年1月、米軍の攻撃で死亡)やアブ・ハムザ・ラビア(アルカイダの作戦司令官。05年12月、米軍の攻撃で死亡)といった大物がいた。
にもかかわらず、食料も資金も不足していた。それでもアラブ人たちは時間をかけて住民と親交を深めた。すぐに地元部族がキャンプ内の一部に入れるようになり、食料などの物資や金を運んできた。AK47自動小銃やRPGロケット砲も提供してくれた。
ユーナス 訓練キャンプにはアラブ人が150人ぐらい、アフガン人やチェチェン人、地元部族の男が何人かいた。アラブ人の指導員がAK47をどう扱うか、敵の情報をどう集めるか、どうすれば迫撃砲やロケット砲の命中精度が上がるかを教えてくれた。
友好的な雰囲気だった。みんなが助け合って互いの命を守らなければと感じていた。03年の初め、冬の寒さのせいでキャンプは閉鎖されたが、3月に呼び戻された。司令官がネク・モハンマドと共に、アフガニスタン駐留米軍に対する最初の越境攻撃作戦の1つを計画していると告げた。訓練済みの戦闘員は200人ほどいたが、使用可能な武器は50人分しかなかった。数十人のアラブ人と私を含めて3、4人のアフガン人、地元部族の数人が武器を渡されて作戦に備えた。
モハンマド まず教わったのがAK47の射撃と分解と手入れの仕方だ。その後、待ち伏せ攻撃やゲリラ戦の訓練が昼も夜も続いた。簡易爆弾(IED)を作る方法、プラスチック爆弾の製造法や起爆装置などへの接続法も習った。暗闇の中でも簡易爆弾を仕掛けられるよう、目隠しをして訓練した。
キャンプの規律は厳しかった。規則を破れば、激しく殴られることもあった。毎朝、夜明け前に起床し、トレーニングをして山の中を走る。非常事態に備える訓練として、夜中もたたき起こされた。私が知る限り、現在アフガニスタンにあるタリバンの訓練キャンプはこれほど厳しくない。
訓練を始めてから2カ月後、われわれは晴れて戦闘員になった。地元部族出身者が約160人、パンジャブ人が数人、アフガン人が約40人。この200人が10のグループに分けられ、各グループに数人のアラブ人が指揮官や指導員として付いた。私たちは(アフガニスタンの)ホスト州やパクティア州、ガズニ州やカンダハル州へ送られた。10グループのうち3つは米軍の攻撃でやられた。危険な時期だった。移動の際は走り、村人に目撃されないようにした。あの頃、村人は味方とはいえず、スパイもいた。