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タリバン独白まで超厳選
タリバン8年間の真実
第1章 9.11後に政権崩壊の屈辱
ハッカニ 9.11の2日前、われわれはお祝い気分だった。(敵対していた武装勢力「北部同盟」の司令官アフメド・シャー・)マスードが死亡し、われわれの勝利が確実になったからだ。
そこへ、アメリカで9.11の出来事が起きた。お祝いムードは吹き飛び、不安が押し寄せてきた。われわれは国内でラクダども(アラブ人に対する蔑称)を自由にさせ過ぎた。連中のせいで災難がまともに降り掛かってきた。アメリカが報復のためにわれわれを攻撃することは予想が付いた。
すぐに妻と子供をパキスタンに逃がした。タリバンの政権がこれほどあっさり崩壊するとは思っていなかったし、これほど容赦なくたたきのめされるとも思っていなかった。誰もが自分と家族を救うことを考え始めた。爆撃が始まると、私はムラー(宗教指導者)の白い服を脱ぎ、パキスタンを目指した。徒歩で(国境の)山を越え、頂上で振り返って言った。「神よ、アフガニスタンを祝福したまえ。イスラム国家のアフガニスタンに私が戻る日は2度と来ないだろう」
アフンドザダ 爆撃が始まったとき、私は(北部の)マザリシャリフ近くの前線で400人ほどの部隊を率いていた。爆弾は麦の穂を刈るみたいに、兵士たちをなぎ倒した。兵士たちの体がばらばらになった。爆発の衝撃で耳や鼻から出血し、放心状態の兵士もいた。死んだ仲間の遺体を埋葬することもできなかった。
降伏する気にはなれなかったので、混乱のなかで数人の部下を連れて退却を開始した。深い雪の中を徒歩で移動した。食べ物もなく、水もなかった。子供たちが丘の上からわれわれに向けて銃を撃った。まるで動物を狩るみたいに。
そのうちに部下たちとはぐれてしまった。歩いていると、やがてミニバスが向こうから走ってきた。銃を構えて運転手に狙いを定めて停車させた。バスには、タリバンの兵士がぎっしり乗っていた。私を乗せる余裕はないと言われたが、銃でタイヤを撃ち抜くぞと脅して無理やり乗り込んだ。バスの床に横になるしかなく、ほかの兵士たちに足で体を踏まれていた。快適とはとうてい言えなかったが、暖かい場所で過ごせるのはずいぶん久しぶりだった。
翌朝、検問に引っ掛かり、地元の武装勢力に拘束された。死の一歩手前だった。世界の終わりの裁きの日を迎えた気分だったが、不潔な牢獄に入れられて1カ月ほどして解放された。残った力を振り絞って、(パキスタンの)ペシャワルまでどうにかたどり着いた。われわれのイスラム首長国(タリバン政権時代のアフガニスタン国家の呼称)は、抵抗を40日間もせずに崩壊した。その事実を受け入れられなかった。神はわれわれを再興させてくださるはずだと思った。われわれはイスラムのために多くの血を流したのだから。
ハーン 退却が始まると、(戦闘に参加していた)アラブ人やチェチェン人、タリバンの兵士たちが(東部の)ガズニ州のわれわれの家とモスク(イスラム礼拝所)の前を慌ただしく通過していった。兵士たちは自動車やトラックを連ねてパキスタンを目指したが、たちまち爆撃の標的になり、乗り物を捨てて歩き始めた。けがをしている人もいた。助けを求めて、負傷したタリバンの兵士や家族連れのアラブ人が父のモスクに逃げ込んだ。ほかの村人たちは、誰も助けようとしなかった。食べ物を与えたのは、父と私だけだった。
ユーナス けがを負い、打ちのめされたタリバン兵たちが(ユーナス一家が暮らしていた難民キャンプのあるパキスタンの山岳地帯の町)ワナと周辺の村に流れ込んできた。アラブ人やチェチェン人、ウズベク人も逃げてきた。朝、学校に行くたびに、物乞いのように町を徘徊する姿が目に入った。少しずつ、地元の人たちが助けの手を差し伸べ、食べ物を与えるようになった。自分の家の中に迎え入れる人たちもいた。
アラブ人は、タリバンがろくに抵抗せずに戦いをやめたことに失望していた。明らかに、アラブ人はアフガン人ほど精神的に打ちのめされていなかった。アラブ人は戦いに敗れたと感じていただけだったが、アフガン人は祖国を失ったと感じていた。
マシフディン タリバン政権が崩壊したとき、私は(東部)ヌリスタン州のマドラサ(イスラム神学校)の学生だった。政府の役人と戦闘員がみんな逃げてしまったので、パキスタンで勉強を続けることにした。(02年に当時のパキスタン大統領パルベズ・)ムシャラフがマドラサで外国人学生が学ぶことを禁止したので、(ペシャワル近郊の)ひなびた村のモスクに身を寄せた。10人の学生が狭い部屋で一緒に寝泊まりした。村人はわれわれに食べ物を用意する余裕がなかったので、夕食抜きの日も多かった。電気もほとんど使えなかった。扇風機がなく、勉強することも眠ることも難しかった。
おまけに、ペシャワルの警察に嫌がらせを受けた。逮捕されることもあったが、長い間拘束されることはなかった。われわれを怯えさせたかっただけなのだろう。われわれはタリバン兵たちの身の安全を祈った。勝利を祈ることはしなかった。そんなことはとうてい無理に思えたからだ。
ハッカニ 家族は(パキスタン北部)マンセラ(の難民キャンプ)にいたが、私が一緒に行くのはまずいと思った。タリバンに反感を抱く人たちもいたし、私の素性はよく知られていたからだ。私は近くのモスクに落ち着いた。子供たちの顔を見るため、泥棒みたいに夜中に(難民キャンプに)忍び込まなくてはならなかった。
ある夜、娘に会いに行くと、カブールの家はどうなったのか、どうして自動車がなくなってしまったのかと聞かれた。難民キャンプはとても暑く、涼しいカブールに戻りたいと、娘は言った。私は何も答えることができなかったが、娘も私の目を見て、私の悲しみは分かったようだった。私は精神的にボロボロで、心を病み、不安にさいなまれていた。パニック状態に近かっただろう。
アフンドザダ 誇り高かったタリバンのムラーや戦士たちが素性を隠すために服装を変えるようになった。タリバンの仲間だと思われたい人は誰もいなかった。司令官時代には敬意を払ってくれた友人や親戚が離れていった。金もなく、仕事もなかった。アフガニスタンから遠く離れた(パキスタンの)パンジャブ州に家族と一緒に移り住んで、日雇い労働を始めるつもりだったが、駄目だった。地元の言葉が話せなかったからだ。
そこでペシャワルに戻って、市場で野菜の行商を始めた。金は入ってくるようになったが、タリバンの敗北と部下だった戦士たちの死は私を苦しめ続けた。寝ている間に泣いているときがあると、妻に言われた。医者に行くと、薬をいくらか渡された。よほど頭の中がほかのことに占領されていたらしく、ジャガイモをくれと市場でお客に言われたのに、トマトを差し出してしまったこともあった。