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冷泉彰彦 プリンストン発 日本/アメリカ 新時代
若者の「悪ふざけ」がエリートの特権である社会とは?
この夏、日本では「バイトの悪ふざけ」というニュースが何度も大きく報道されていました。アメリカから見ていると、この「悪ふざけ」のカルチャーについて、日米の間には大きな違いがあり、色々と考えさせられたのも事実です。
まずアメリカの方ですが、若者の「悪ふざけ」というカルチャーはかなり確立されています。一般的には「プランク(プラクティカル・ジョーク=目に見える行為としての冗談)」と言われるもので、社会のあちこちに存在していますし、多くの場合は大人社会は「寛容」です。
いろいろな例がありますが、日本でも有名なものとしては、メジャーリーグの「新人選手」が、ある時期に女装などの妙な格好をさせられるという「伝統」があります。「ルーキー・ヘイジング」とか「ルーキー・ラギング」と言って、例えば昨年は川崎宗則選手が妖精の扮装をさせられたりして、かなり定着したカルチャーと言えるでしょう。
また、アメリカの各大学には「プランクの伝統」があります。特に有名なのが、MIT(マサチューセッツ工科大学)で、単なる「プランク」ではなく工科大学ならではの技術力を見せながらのジョークを展開することになっており、「MITのハッキング」という名の伝統になっています。
例えば「グレート・ドーム」と呼ばれる建物のドーム状の屋根の上に、突如として「消防車」とか「アポロの宇宙船」を出現させてアッと言わせるとか、ピアノを校舎の二階から中庭に落としてぶっ壊すなど、豪快な「悪ふざけ」をやるわけです。
この種の「プランク」というのは、大学ごとに色々あり、男女共学になる以前のプリンストンでは一部の寮の新入生が裸になってストリーキングをさせられるとか、多くの場合は新入生に「通過儀礼」としてやらせたり、あるいは「エイプリル・フール」とか「ライバル大学とのフットボールの試合」などに合わせて「ネタ」になりそうなことをやるわけです。
つまり、こうした「若者の悪ふざけ」というのは、アメリカの場合は「エリートのカルチャー」になっているのです。MITが正にそうです。では、どうしてプランクが伝統になっていて、社会から「寛容な」姿勢で認められているかというと、そうした「逸脱」が「未知の状況に対応する」という「リーダーに相応しい判断力やイマジネーション、コミュニケーション能力」を鍛えることになるからです。
MITの「ハッキング」の場合ですと「持ち上げた消防車(実は巨大な模型)」など、グレート・ドームに設置したイタズラについては、大学当局へ「キチンとした解体マニュアル」を届けるとか、ぶっ壊したピアノは「見事に修復する」という「カッコいい解決」も合わせて伝統になっているわけで、そこにはある種の「自律的なモラル」という美学もあるわけです。
反対に、アメリカの場合は最低賃金スレスレで働かされている外食産業や、流通の現場などには「プランク」の伝統はありません。若者であっても、契約に縛られる中で生活のために時給で働かなくてはならない世界では、基本的に「逸脱」が禁じられているのです。日本とは違って、多少は寛容性がある場合もありますが、エリートの世界の堂々とした「プランクの伝統」のようなものはありません。
教育現場についても同じです。貧困層が多く、犯罪や犯罪被害の発生率の高い学区の高校では、厳格な持ち物検査が行われたり、少しでも汚い言葉を使ったら停学になるなど、窮屈な環境があります。それは、エリート大学生による「ユーモア溢れるプランク」のカルチャーとは対極の世界です。その鮮やかな対比は、正に格差社会の反映だと言えるでしょう。
勿論、今回の日本の「バイトの悪ふざけ」というのは、全くほめられたものではありません。例えば、流通や小売のチェーン本部が、事件の起きた店舗を「閉鎖」するしかないというのも、ある意味、現代という時代では仕方がないように思われます。というのは、消費者の「企業化されたチェーンが提供する厳格な管理に裏打ちされた安心感」への「期待を裏切る」ことが企業のブランドへの決定的なダメージになるという危機感を否定するのは難しいからです。
そうではあるのですが、いわゆる「下積み」の若者の中に「100%屈服した従順さ」以外の何かがあるというのは、アメリカの息苦しさに比べれば、どこか「一息つく」感じがあるのも事実です。将来が約束された若者には「プランク」を行う自由がある一方で、生活のために日々の仕事に追われる若者には自由がないという閉塞した格差社会よりは、まだどこか救いがあるように思われるからです。
そう考えると、改めて浮かび上がってくるのが、日本のエリート階層の特殊性です。そこには「プランク」どころかユーモアの感覚も、アドリブのコミュニケーション能力も欠落した硬直化したカルチャーがあるように思います。
例えば、今回の事件の舞台となった「企業化された外食や小売のチェーン」に関して言えば、「ギリギリの企業努力」で、「画一性とお値打ち感」を演出し、消費者にそのような期待を持たせてきたのは、チェーン本部のエリート官僚組織であったわけです。今回の閉店騒動だけでなく、ここ20年の日本の小売やサービス業界の「デフレ傾向」というのも、彼等の「バカバカしいまでに真面目」な経営姿勢が作ってきたものだとも言えそうです。
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