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プリンストン発 新潮流アメリカ

 ジョン・エドワーズといえば、2004年の大統領選挙では予備選での善戦を受けてジョン・ケリーの副大統領候補となるなどアメリカ民主党の「ホープ」の1人でした。落選後も人気は衰えず2008年の予備選でも大統領候補へのチャレンジを続けたのです。とりわけ、乳ガンとの闘病を続けたエリザベス夫人との「おしどり」ぶりは有名でした。

 この夫婦に関しては、長男を若くして交通事故で失っているというエピソードが有名です。その痛みを共有しつつ、その痛みをバネに「お金のための弁護士生活」から「公益のための政治家活動」へと夫婦で転身したこと、悲しみを乗り越える中で不妊治療を受けて幼い2人の子を授かったことなどが、感動のストーリーとして語られていたのです。

 ですが、その後のエドワーズの運命は正に地獄へと暗転したのです。まず夫人の病状再発を受けて選挙戦から撤退、その後に選挙運動中にジャーナリストの女性との不倫があったこと、選挙戦撤退の直後にその不倫相手との子どもが生まれていることなどが明らかになりました。夫婦は別居状態となる中、エリザベス・エドワーズは2010年12月に逝去しました。

 そのエリザベス夫人は『リジリエンス(癒し、回復)』という自伝的な手記を遺しています。そこには、長男の死と夫の不倫に対して自身が向きあって来たこと、その上で自分の死の予感とどのように折り合いをつけてきたかが几帳面な文体で、生々しく綴られているのです。

 そんなわけで、エドワーズは政治家としては完全に「死んだ」のですが、それだけでは済まないことになりました。というのは、2つの「重罪容疑」について連邦司法省から起訴を示唆されたからです。1つは「大統領予備選に際して不倫疑惑を否定し続けたことが虚偽申告に当たる」という罪状、もう1つは、愛人の存在を社会から隠すために愛人への生活費支給など多額のカネが動いたのですが、その出所の問題です。

 そのカネの出所ですが、ある大富豪の女性が資金提供していることが判明しています。アメリカの大統領選は収支の厳格な報告が求められているのですが、その資金提供に関しては記載されていないのです。つまり、違法献金ということです。金額的にも個人献金枠をはるかにオーバーした額が動いています。また仮に政治献金だとしても、これを愛人の隠匿工作に充当していたということは、これまた違法ということになります。

 この2点に関して、連邦司法省はエドワーズに司法取引を強く持ちかけました。最終的な条件は、「罰金+禁固6カ月」を呑めば弁護士資格の剥奪は見送るというもので、連邦としては最大限の譲歩だと言われたのです。ですがエドワーズと弁護団は昨年に和解条件を拒否し、罪状認否において「否認」を表明、ここにドラマは法廷へと持ち込まれたわけです。

 エドワーズが司法取引を拒否したのは、まだ14歳と12歳の下の子供たちを「シングル・ファーザー」として育てている養育責任を考えると収監はされたくないという理由でした。では、エドワーズ側に勝算があるのかというと、これは何とも分かりません。

 まず、第1の「ウソをついた」という問題に関しては「闘病中の夫人を傷つけたくなかった」という言い方で、それこそクリントンの「モニカ疑惑」同様に逃げ切れるという説もあれば、他でもない大統領選の権威から考えるとダメという説まで色々あります。エドワーズ本人は「自分は道徳上の罪(シン)は犯したが犯罪(クライム)は犯していない」という名ゼリフを吐いていますが、陪審がどう考えるかまだ分かりません。

 第2の問題については、この「愛人隠し」については選挙参謀のアンドリュー・ヤング氏という人物が深く関与していたわけですが、カネの流れについてエドワーズ本人がどこまで関与していたのかということが問われているわけです。

 いずれにしても、エドワーズの行為は最低の部類に属するものの、個別の人間ドラマに関しては故エリザベス夫人の手記に始まって、ものすごいリアリティがあり、メディアとしては否が応でも報道を加熱せざるを得ないというわけです。

 カギを握るのは何と言っても選挙参謀のアンドリュー・ヤング氏で、「愛人の存在を隠すことは選挙運動の最優先事項だった」という発言が飛び出しています。そのヤング氏の奥さんの証言「私のせいで(選挙の)何もかもをダメにするわけにも行かず、結局はウソ(愛人を隠したこと)と共に生きるしかなかったんです」というのも話題になりました。

 また、エドワーズの長女であるケイト・エドワーズさんが弁護士として父のそばを片時も離れない姿も印象的です。このプリンストン大学とハーバード法科大学院を卒業した才媛は、恐らくは心の奥には亡くなった母の思いを抱え込みながら、その母を最悪の形で傷つけた父を今は身内として精神的に支えているわけです。生々しい証言の際には涙を流す場面も目撃されていますが、「それでも父を支える」姿が注目されています。そのケイトさんは、5月16日に母の立場を代弁する主旨で証言台に立つそうです。

 まあ、話としてはそれ以上でも以下でもなく、仮に有罪になっても民主党のイメージなど政治的な影響はないと思われます。ですが、アメリカ人は、こうした生々しい人間ドラマを伴った法廷劇が大好きですし、ここまで転落しても「イケメン」の容貌だけは衰えていない(健康問題はあるようですが)エドワーズのTV映りもあって、結審までニュースでのトップ扱いは続きそうです。

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 連休中につくば市などを襲った竜巻の被害は、今でも様々な波紋を投げかけているようです。竜巻の危険性が改めて認識される一方で、中には頻繁な竜巻警報に関しては「オオカミ少年」になってはいけないという声もあるようです。

 竜巻といえば、ここ北米大陸が何と言っても本場であることは間違いありません。特に春先の3月から5月にかけては北極寒気団が上空に居座る一方で、真っ平らな大平原(グレート・プレーリー)では一旦晴天となると地表近くの気温は上昇し、巨大な逆転層が発生することから、竜巻というのは日常的な現象になっています。

 ですから北米の場合は、竜巻の警戒システムというのは否が応でも発達せざるを得なかったと考えられます。その一方で平地の少ない、また海の温度変化を受けやすい海洋型気候の日本では、竜巻の危険度というのは一桁も二桁も違うとも思われ、警戒態勢が整わないことも、一旦警戒警報が頻発するようになると、違和感を感じる声が出るなど制度的にギクシャクするなどというのは、仕方がないとも思えたのです。

 ですが、よく考えるとアメリカでとりあえず竜巻への警戒態勢が整備されたのには、1人の日本人の功績が大きかったということを忘れるわけには行きません。それは、故藤田哲也博士の功績についてです。藤田博士という人は、1920年に福岡県の北九州市小倉区の出身、明治専門学校(九州工業大学の前身)を卒業後、東大で博士号を取った後に、アメリカに渡り長年シカゴ大学を拠点に、1998年に亡くなるまで竜巻やダウンバーストの研究を続けています。

 アメリカでは「ミスター・トルネード」とか「トルネード・マン」などとニックネームで呼ばれるなど竜巻研究の権威で知られ、とにかく多くの竜巻被災地を視察して、実際のダメージと、瞬間風力を試算することから、竜巻のインパクトの大きさを客観化するための「藤田スケール」という段階評価を発明したのです。ちなみに、今回のつくば市のものは「F(フジタ)2」であると言われています。

 藤田博士の研究が進むにつれて、アメリカでは竜巻に対する様々な関心が広がり、特に天気予報専門チャンネルであるTVの「ウェザー・チャンネル(NBC系列)」や、「ディカバリー・チャンネル」などが竜巻に関する啓蒙番組を数多く放映する中で、竜巻のメカニズムや危険性などへの理解が広まったと言えるでしょう。今回はとりあえず、そのようにしてアメリカで広まっている竜巻に関する理解を簡単に箇条書きにしてご紹介することにします。

(1)竜巻は積乱雲(雷雲)が発生することで起きる。特に巨大積乱雲(スーパーセル)が危険。ヒョウが降るなどといった現象も強い上昇気流が存在する証拠。

(2)スーパーセルの発生可能性は気圧配置と気温予想、上空気温予想、ジェットストリームなどからまず予報する。スーパーセルによる大規模雷雨の予報を出す際には、特に竜巻発生の可能性の強い地区を「赤いゾーン」として公表し、各局の天気予報などで周知徹底を図る。

(3)予報された当日は、各地のドップラー・レーダーなどを駆使して、実際の竜巻の発生を監視する。特にスーパーセルが発生し、その形状が楕円形や連続した楕円形を形成しつつ、その最も濃厚な部分に「上空から見てフック(カギ)状の非対称形態の雲」が発生した際には要注意で、そうしたケースにはその地域に警報を出す。

(4)警報に従って避難体制を取る一方で警察や消防が「ローテーション」(空気の渦による竜巻の原型)が発生していないか、あるいはスーパーセルに「漏斗雲」(下のすぼまったロート型の雲)が形成されていないかを昼間であれば目視警戒する。実際にローテーションが発達したり、漏斗雲からの渦が降りてきて接地した(タッチダウン)際、あるいはドップラーレーダーで顕著な映像が出た場合は最高限度の警報を出し、TVやラジオ、ネット、各地のサイレンなどで竜巻の移動を速報しつつ、最高度の厳戒態勢に入る。

(5)警戒時には、住民は原則「地下シェルター」もしくは「地下室」に移動。地下のない場合は、窓から離れて建物中心部へ。その際にユニットバスの中などF3以上では筐体ごと吹き飛ばされる危険のある場所は避ける。戸外の駐車車両の中、倉庫の中なども絶対に避ける。

 というような知識が共有化され、対応が取られているわけです。別にものすごく特別な予報や対応がされているわけではありませんが、こうした体制の精度を上げてゆくことで何とか対応しているわけです。また、昨年5月や今年3月など特に竜巻のひどいシーズンには、どうしても警報が追いかけきれずに大きな被害を出してしまうこともまだまだあります。ですが、曲がりなりにもアメリカの社会が竜巻と共存して生活ができている背景には、藤田博士の功績があるのは間違いないでしょう。

 日本の警戒態勢整備ですが、とりあえずドップラーレーダーなどの観測体制は整っているようですが、スーパーセルの発生時に「該当地域だけに絞った効果的な警報発信」というコミュニケーションに課題があるようです。そこが改善すれば、相当な安心感の向上を、オオカミ少年的な逆効果を気にせずに追求できるのではないかと思われます。

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 北朝鮮による拉致被害者家族連絡会のメンバーが、米国務省でキャンベル国務次官補と面会した際、キャンベル氏が、北朝鮮の拉致の問題と同時に国際結婚の破綻に伴う「日本人親による子の連れ去り」問題に言及、並行して親権の問題を考えて欲しいと発言したという報道があります。

 その場にいた家族会メンバーは「親権の話は夫婦間の問題だが、拉致は国家的な犯罪。北朝鮮で命の危険にさらされている人間の問題を親権の問題と同一視するのは納得できない」(産経の電子版による)と反論したそうですし、米国国務省は後で「両者は別次元の問題」だという見解を出したようです。

 この問題ですが、他でもないキャンベル次官補の口からポロッと出たというのは、ある種アメリカ国務省のホンネを表していると見るべきでしょう。そういう言い方をしますと、憤りを覚える方もあるかもしれませんが、何しろこれは外交であり、アメリカという相手がある話ですから、相手側の発想法を分析しておくことは必要だと思うのです。

 アメリカがこの問題における「日本の立場」が理解できないのには1つの理由があると思われます。それは、成人した人間、次世代の家族を構成している人間を親が「奪還する」ことの正当性について、どうにもピンと来ていないという問題です。

 数年前に、アメリカの外交関係者から愚痴を言われたことがあるのですが、「拉致問題が凶悪なのは分かるが、何をもって解決というのかが分からない。完全な原状回復は無理だろうし」というのがその内容でした。彼は、何も相手が独裁政権だから諦めろと言っていたのではありません。ただ、仮に理不尽な拉致をされたとしても、拉致をされた先で結婚し子供もある、つまり向こうに日本側の知らない人生も生活もあるケースについては、親や兄弟として「完全な原状回復としての奪還」というのはどうもピンと来ないというのです。

 アメリカの国務省は「日本海からそっと近づいて、いきなり人間を麻袋に入れて船に乗せて運んでしまう」という拉致事件の凶悪な側面を知らないわけではないのです。仮にそうであっても、成人したら、更には結婚して次世代の家庭を持ったら、それは親からの独立だという感覚が強い常識としてあるので、老親による成人した子どもの「完全なる奪還」という目標設定には感情移入できないのだと思います。

 ブッシュ前大統領が横田さん一家の件について、詳しく理解した上で同情を示したというのは事実ですが、これはあくまで個別の家族のドラマとしてブッシュという個人が理解したということです。拉致問題全般について共和党は理解があるが、民主党は冷たいというようなことではないと思います。

 似たような話としては、宗教の問題があります。歴史が比較的浅く布教活動に積極的な宗教団体に入信した子供を、親が必死になって「奪還」するとか、その際に「洗脳を解く」ということが日本ではよく話題になります。ですが、この種の話もアメリカではピンと来ていないのです。特に子供が18歳以上の場合は、個人の信仰の自由に対して、親が「奪還」へと行動を起こすことには全く共感していないように思われます。

 教団側が相当にロビーングをした結果でもあるようですが、「成人した子どもの信仰の自由を阻害する親の行動が放置されており、社会として信教の自由確保に積極的ではない」などという理由で、米国務省から日本は「要注意国」扱いされていたりするのです。これもまた妙な話ではあります。

 一方で、国際結婚破綻に関する子の略取の問題に関しては、今回アメリカ側は「夫婦間の問題であり、北朝鮮の拉致とは同列には扱わない」という「外交上のコメント」を出してはいます。ですが、これもまたホンネのところでは決して個々の問題とも思っていないのです。

 例えば「離婚の際に親権が母親に行くような家裁決定が圧倒的に多い」とか「親権のない親の面会権確保に強制力がない」あるいは「親権のない方の親が再婚したら子への面会を自粛させられる」といった「社会慣習」については、公式に国家ぐるみの「犯罪」とまでは言っていませんが、アメリカの国務省としては「注意喚起情報」として正式に取り上げています。つまり日本社会全体の問題として憤っているのです。

 私自身について言えば、3点目の親権の話はアメリカの主張に分があり、日本は民法改正をして離婚法制を世界標準に合わせた上でハーグ条約を批准するべきと思っていますが、拉致と宗教の話に関しては、アメリカの態度には普遍性は感じません。

 いずれにしても、こうしたアメリカ人の発想法というのはホンネの部分ではなかなか変えられないものだと思います。外交にあたっては、そうした価値観や文化の違いを前提に、実利の問題としていかに共闘を組むかをもっと考えて行かないといけないように思います。

 一方で、この件と並行して日本国の総務省から出向中の駐米外交官が、こともあろうに家庭内暴力で逮捕されてしまい、しかも報道によれば相当に不利な局面であるのに司法取引に応じていないという報道がありました。

 地区検事は会見で「外交特権の対象外であることを司法省とも慎重に協議した上での立件だ」と述べた上で、妻に対して「車から突き飛ばした」とか「スクリュードライバー(ねじ回し)で手のひらを傷つけた。証拠写真もある」などと詳細を挙げており、保釈金も35万ドル(2800万円)に増額されているということから、相当深刻な立件になりそうです。

 これも「家庭内の一件」では済まない問題だと思います。アメリカでは配偶者への具体的な暴力は刑事事件として立件され、有罪になれば厳罰に処されるということ、更に司法取引を拒んで陪審に付され有罪になった際には相当に厳しい結果を覚悟しなくてはならないということは常識だと思います。

 この人物はサンフランシスコ総領事館の副領事だということですから、安全保障上に関わる国家レベルの外交には関与していないかもしれませんが、例えば国際結婚破綻後のトラブルとか、誤解から来る児童虐待容疑など、個別の案件に関する外交的な処理は担当していたはずです。

 にも関わらず、米国の価値観や法制への理解が甘い人間が外交をやっていたということは、状況として深刻だと思います。勿論、事件そのものは個人の資質に帰する問題ですが、在外公館の風土として全く反省が必要ないとは言えないはずです。先ほどの3つの問題の背景にある価値観を理解した上での戦略的な外交を目指すために、外交の現場のレベルアップを求めたいと思います。

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 日本企業の人事制度や就活中の学生に対して、常見陽平氏が発信するメッセージには注目しています。中長期の視点で企業側へ変革を促しながら、短期の視点では学生たちに戦術レベルで有効なサジェスチョンを続ける姿勢に誠実なものを感じるからです。今回アゴラに掲載された『アップルが新入社員に渡すメッセージがブラック企業みたいな件』というコラムも、妙な形で社員のモチベーションを操作しようという日本企業の「ブラック性」に対して若者に警戒せよと呼びかける良心的なものでした。

 ただ、コラムのタイトルにもなっているアップル社の「新入社員向けメッセージ」については、少々注釈が必要と感じたのも事実です。常見氏がフェイスブックで見つけたというそのメッセージはこんな感じです。

"There's work and there's your life's work. The kind of work that has your fingerprints all over it. The kind of work that you'd never compromise on. That you'd sacrifice a weekend for. You can do that kind of work at Apple. People don't come here to play it safe. They come here to swim in the deep end. They want their work to add up to something. Something big. Something that couldn't happen enywhere else. Welcome to Apple."

「仕事には2種類ある。単なる仕事とキミの人生そのものになる仕事の2つだ。人生そのものになる仕事というのは、そのあちこちにキミだけのオリジナリティが指紋みたいに貼り付いているものだ。そういう仕事は妥協とは無縁。一度ぐらい週末を潰す価値もあるかもしれない。そうした仕事がアップルにはある。安全なゲームで満足するヤツはここには来ない。ここに来るヤツはいきなりプールの深いところに飛び込むのと同じだ。とにかくみんな何かを達成したいんだ。何かビッグなこと、他では起こり得ない何かを。アップルはキミを歓迎する。(筆者意訳)」

 確かに常見氏の言うように、この種の「メッセージ」をいきなり新入社員に突きつけるような会社があったら、日本では相当に「ブラック」でしょう。ですが、シリコンバレーのアップル本社「キャンパス」に入社した若者に、仮にこうしたメッセージが渡されるのだとして、そこには「ブラック性」はないのです。

 それはアップルが良心的な会社だからではありません。一般に、アメリカの労働慣行では開発を担当する技術専門職には、労働の「裁量権」というのが認められているからです。時には「週末を潰すぐらいのやりがい」がある、そんな種類のプロジェクトに関わっている技術者には「今日は調子が出ないので3時で帰ってリフレッシュ」とか、「進捗が順調なので金曜は休んで3連休」という自由があるのです。

 つまり、このメッセージは週末を潰せと言っているのではなく、メッセージの全体としては、リスクを取りつつ個人の裁量で思い切りやれと言っているだけなのです。この点が、日本の労働慣行とは全く違います。日本の裁量労働とか「ホワイトカラー・エグセンプション」などが嘘っぱちなのは、労働時間や仕事のペース配分について本当の裁量権を個々人には与えていないからです。

 経営者は自由に頭脳労働してもらいたいなどと言いますが、実態は違います。儀式めいた「全社朝礼」とか「経営方針確認会議」だとかには出なくてはならず、またその都度飛び込んでくる関連部署や取引先からの「問い合わせ」には即答しなくてはなりません。更には下から上へのコミュニケーションでは多くの場合メールではダメで「出向いて報告」が求められるわけで、報告するだけで時間調整や移動の手間がかかったりします。そうした条件下では本当の意味の「裁量労働」などというのは不可能です。

 勿論、シリコンバレーの技術者も好き勝手に遊んでいるわけではありません。アップルの場合、今現在の最も「花形」の職場ということでは、恐らく iPhone6 あたりの「4G 環境での省電源型通信管理ソフト」などを「クアルコムやサムソンの特許に抵触しない」条件で作れというような「特命」を受けたチームになると思います。そうした職場での目標管理は非常に厳しいはずです。所定の目標スペックを量産計画から逆算したXデーまでに達成する、それができればビッグボーナス、ダメならクビというのに近い世界があるのだと思われます。

 いずれにしても、こうした現場での「社員」というのは、大学や大学院で最先端の技術を学んだか、他社から引きぬいた人材で、スタート時点での年俸は8万ドルを下回ることはないでしょう。更に言えば、仮に上層部とケンカしたり運が悪くて低評価になって辞表を出したりしても、労働市場がちゃんとあり、能力さえあれば他社から好条件で迎えられる可能性は十分にあるわけです。

 1つ注意しておかねばならないのは、こうしたメッセージはあくまで高度専門職・管理職向けのものです。例えば「アップルストア」のローカル採用組などには一切適用していないはずです。週末返上うんぬんという部分が労働法規違反に受け取られる恐れもありますが、それ以上に「ビッグな何かができる」という表現が、将来の昇進昇格の可能性を約束しているように受け取られる危険があるからです。

 いずれにしても、日本の労働慣行では、社員に本当の裁量性を与えず、個人が持っている才能を正当に評価もせず、また十分な報酬も保証しない一方で、転職のための労働市場も十分にない、つまり半端な形で終身雇用が残っているわけです。そんな中で、この種のメッセージを出すのはやはり「ブラック」であると言って良いでしょう。出世を人質に作業レベルの仕事を長時間押し付けたり、全人格的な服従を強いたりして、それでも「自発的に」働いてもらうための悪質な洗脳と言われても仕方がないからです。

 この種の「ブラック性」に若者が押し潰される危険も気になりますが、一方で、私としては、日本の産業界が、アップルのような働き方を好む世界の最先端人材を使いこなせないという問題も大変に気になります。優れた才能をグローバルな労働市場から引っ張って来て思い切った権限を与え、自由に仕事をさせるということが、これからのハード・ソフト融合型のIT関連ビジネスには欠かせないからです。

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少子化問題その根源を問う(第1回)

2012年05月07日(月)12時49分

 毎年5月5日の「こどもの日」が来ると、わざわざ総務省が15歳未満の「子ども人口」が減った話をプレスリリースとして出し、新聞やテレビが発表するというのが恒例になっているようです。今年の場合も、各紙の報道を見ると「15歳未満の子供の推計人口は、前年比12万人減の1665万人。子供の数の減少は31年連続」というような表現になるわけです。

 そもそも「こどもの日」というのは祝日法の条文によれば「こどもの幸福をはかる」ための日にだそうですが、毎年その日になると「子どもが減った、子どもが減った」と嘆くというのは、何ともやり切れない感じがします。

 それにしても、少子高齢化というのは深刻な問題です。ですが、ここ数年の動向を見ていると、もう小手先の対策ではダメではないかという印象があるのです。勿論、若年層の経済力が損なわれていること、保育所の待機児童の問題、男性の家事・育児参加の問題、長時間労働の問題、数度の産休が職場のキャリアパスを徹底的に不利にする問題、非嫡出子や婚外子への差別の問題などを1つ1つ「つぶして」ゆけば何らかの成果があるのでしょう。

 ですが、そうした「積み上げ」でもそれほど大きな数字にならないのではないか、それは非婚率が上昇しているからです。生涯非婚率が上昇している、特に男性では20%に乗るというような状況を前にしては、どんな対策も効果には限界があるように思われます。

 ではそうした非婚化という問題を含めた、少子化の根源的な理由は何なのでしょうか? この欄では、具体的な政策論ではなく、もう少し深層の文化的な問題として少子化を考えてみたいと思います。1つの仮説ですが、私が日本社会を見ていて感じるのは、日本では「ロマンチック・ラブ」の神話と「核家族」のイデオロギーが壊れてしまっているという印象です。

 それにしても、この「ロマンチック・ラブ」とか「核家族というイデオロギー」という書き方をすると日本では全く説得力がないわけで、幻想であるとか「きれい事」だというイメージになってしまうわけです。例えば「恋愛は青春の思い出だが、結婚はまた別」とか「好きな人も結婚してしまえば家族になってしまう」というような言い方が自然であって、つまりは「ロマンチック・ラブ」が「核家族の求心力」になるというのは非現実的だというのが今でも日本では常識としてあるように思います。

 我々はこうした文化をすっかり自然なものとして受け止めているわけで、その派生として、特に強い恋愛感情のことをわざわざ「純愛」だと言ってみたり、仲の良い夫婦を「ラブラブ」などという言うわけです。こうした表現だけを取ってみれば、単に羞恥の文化があるからそうした言い方があるのだという説明も可能かもしれません。ですが、今風の言い方で言えば「恋愛と結婚は別腹、更には不倫は別腹」などということを面白かしく言いながら、そっちがデフォルトに近い感覚があって、「純愛」や「ラブラブ」の方が例外的というのはカルチャーとして相当に確立しているように思うのです。

 だとすれば、こうしたカルチャーそのものが非婚少子化の根源にあるのではないでしょうか。ロマンチック・ラブなどというから特殊に見えますが、要するに恋愛というのは「この相手を生殖のパートナーにして次世代を残したい」という本能的な直感であるわけです。また核家族のイデオロギーというと、何か大げさなものに見えますが、要するにヒトの子というのは、大変に未熟なまま生まれてくる一方で、脳の機能が高度化した生物なので、成熟するまでの間は、成熟した親がエサの供給だけでなく、感情面の安定にも責任を持たねばならないわけです。その行動を生物学的な親であるカップルが担うという、人類には必然的な行動様式に過ぎないとも考えられるのです。

 逆に子の視点で見れば、ロマンチック・ラブの考え方が軽視されているということは、「もしかしたら自分の出生に当たっての両親のパートナー選択は生殖本能による直感ではなかったのではないか?」というアイデンティティの危機をもたらす可能性があるわけです。また未熟な自分を脳の機能を含めて成熟へと導く行動を、両親が「最優先の問題としていない」つまり核家族という単位を彼等が行動の最優先の単位としていないということは、子の視点からは大変な危機になるわけです。

 勿論、ロマンチック・ラブとは違う経緯で結婚したカップルの子や、両親のどちらかが長時間労働で家庭を省みない状況の子どもが、全員何らかの危機を抱えているとは限りません。人間の精神というのは、どこかで安定を実現する複雑な回復力を持っているからです。ですが、そうした子供たちは、自分が親になっていく際の「役割モデル」としては自分の両親を描くことは難しいわけで、強い資質の子であれば親に反発して自分の世代では核家族の求心力を作るかもしれませんが、多くの子たちは自分の親に「役割モデル」を見出せぬまま、結婚とか出産への動機を失ってしまったのではないかと思われます。

 その意味で、1947年前後に毎年220万人という人口の「塊」を作った団塊世代が、74年前後には同じように毎年210万人に達する「第2次ベビーブーム」の塊を作った一方で、その「第2次」の人々はついに「第3次ベビーブーム」のピークは一切作らずに出産ピークの年齢から静かに去っていこうとしている、その背景には団塊世代が団塊2世に対して「ロマンチック・ラブと核家族」のモデルを提示できなかったという問題があるのではないかと思うのです。

 勿論、それ以前の日本の世代は核家族ではなく、大家族主義があり、その中で本人の意志より家族の意志によるパートナー選択ということがずっと続いていたわけです。では、団塊世代において何が起こったのでしょうか? 1つの仮説は、家族のあり方として大家族が崩壊して物理的に核家族になったのに、その核家族が精神的な求心力を持たなかったということです。また、自己決定権という思想がある程度浸透していたにも関わらず、マイナスの選択あるいは「敗北」としてロマンチック・ラブによるパートナー選択ができなかったということなのかもしれません。

 私はここで団塊世代を批判しようとは思いません。ただ、彼等が若き日に「22歳の別れ」だとか「なごり雪」などというセンチメンタリズムに乗せてロマンチック・ラブという思想から敗北していったことが(勿論、全員ではないにしても)、40年後に日本を少子化による国家的な危機に陥れる契機になった、そこに何らかの必然性があるのなら、その解明がこれからの少子化克服のカギになるのではと思うのです。

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BLOGGER'S PROFILE

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修了(修士、日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。主な著書に『アメリカは本当に「貧困大国」なのか?』(阪急コミュニケーションズ)、『アメリカモデルの終焉』(東洋経済新報社)など。
メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」を毎週連載中。新刊電子書籍「FROM 911、USAレポート 10年の記録」(G2010刊)を、iPad/iPhoneアプリとしてAppleストアにて発売中。