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プリンストン発 日本/アメリカ 新時代
スピルバーグ最新作『リンカーン』のストーリーはどうしてシンプルなのか?
PLOに対するイスラエルの報復テロを告発した『ミュンヘン』(2005年)を制作するというリスクを冒したスティーブン・スピルバーグ監督は、この『ミュンヘン』での「政治的コスト」を支払うかのように、シリアスなドラマの演出には空白期間を置いていたようです。
今回、7年ぶりに真剣な政治ドラマの世界に戻ってきたそのスピルバーグ監督の『リンカーン』は、久々にスピルバーグの「健在ぶり」を見せつけたということも含めて、大変な高評価を受けています。興行的にも大ヒットと言ってよく、現時点での売上は1億7600万ドル(約163億円)と歴史ドラマとしては例外的な成功を収め、今週末、2月24日に発表されるオスカーの作品賞にも有力視されています。
それにしても、素晴らしい仕上がりの作品です。ヤヌス・カミンスキーのカメラはデジタルの後処理も含めて、スピルバーグ作品の中でも最高に「いい絵」を作っていますし、何より主演のリンカーン大統領夫妻を演じたダニエル・デイ=ルイスとサリー・フィールドの演技は重厚そのものでした。ですが、私は第一印象としては、それほどのインパクトは感じなかったのです。それは「ストーリーが単純過ぎる」という思いがあったからです。
リンカーンの伝記映画を期待した私には、リンカーンの政治思想がどうやって形成されたのかというエピソードも見たかったですし、何よりも南北戦争に突入するまでの「戦争回避のための妥協か、それとも国家の分裂か」というギリギリの政治的な駆け引きの部分も見たかったのです。
何よりも、この映画には大統領制史家の権威、ドリス・カーンズ・グッドウィン氏による『Team of Rivals 』(邦訳は『リンカン』(中央公論新社))という立派な原作(シリアスな歴史書としては例外的なベストセラー)があって、この本の中ではリンカーンが大統領予備選を戦ったライバルたちを自身の閣僚に迎えるという政権誕生時の秘話や、奴隷解放宣言がクライマックスになっています。ですが、映画化にあたっては、こうしたエピソードも一切出てきません。
映画のストーリーは大変にシンプルで、南北戦争はほぼ大勢が北軍に有利になっている時点から始まり、戦争終結の前に「合衆国憲法修正第13条(サーティーンス・アメンドメント)」つまり「憲法上の奴隷制禁止条項」を下院が可決しておくことが政治的課題になっていたという、その一点に絞ってドラマが進行するのです。
歴史ドラマとしては例外的に「分かりやすい話」であって、共和党と民主党の人種問題に関する立ち位置が20世紀後半以降の時代とは正反対であることさえ分かっていれば、ストーリーをフォローするのは難しくありません。
政争のドラマといってもリンカーンの属する共和党の急進派(奴隷解放論者)と、奴隷に依存した経済に未練を残した民主党の保守派が下院を舞台に駆け引きを繰り返す、それだけが中心なのです。そこでリンカーンの指導力と、リンカーンの片腕とも言えるスワード国務長官(正にリンカーンの元政治的ライバルでデヴィッド・ストラザーンが好演)が活躍するわけですが、あくまで「合衆国内部の政争」であって、南北の対立ではないのです。
ですが、最近になってこの映画の思わぬ「余波」に関するニュースを知る機会を得て、私の印象は大きく変わりました。
ニュースというのは、この「合衆国憲法修正13条」に関して、ミシシッピ州の批准(ラティフィケーション)手続きがこの映画の影響で初めて完了したというのです。合衆国憲法の修正手続きは、まず上下両院総数の3分の2の可決の後、各州が批准するのですが、4分の3の州が批准した瞬間に、一切の手続きなしに「憲法修正が発効」することになっています。
この合衆国憲法修正13条(奴隷制の禁止)に関しては、映画のストーリーにもあるように北部だけの「アメリカ合衆国」でまず可決したのですが、その後はスワード国務長官の主導で「南部復帰後の再統一された合衆国」として当時の36州の4分の3を超過する「28州目の批准」がされた時点で即時発効となっています。
法律上は、その後に合衆国に加盟した州や新規に昇格した州は批准の対象にはなりません。ところが、対象となる38州のうち、何州かは批准が遅れたのです。20世紀後半まで持ち越した州が2州あり、1つはケンタッキーの1976年で、最後になったのがミシシッピ州でした。ミシシッピに関しては、1995年に批准しているのですが、批准の事実を連邦政府に届ける手続きがされていなかったのです。
この『リンカーン』が全米で大ヒットとなる中で、ミシシッピ州としては「批准の事実をキチンと届け出ていないのは州として恥ずかしい」ということで急いで手続きが行われ、結果的にこれで36州全部の批准が完了したというのです。
この「映画に触発されて手続きが進んだ」というのは美談ですが、奴隷制の廃止条項に関する州の批准が1976年とか1995年までできていなかった州があるというのは、やはりアメリカの歴史の暗部と言いますか、何とも重苦しい印象を与えるのです。
そうなのです。スピルバーグは、南北戦争直前の政局も、奴隷制に固執した南部の姿も描かなかったのです。プロデューサーや脚本家とも協議した上で、わざと描かなかったのです。どうしてなのでしょう? 恐らくは、原作本のクライマックスである「南北分裂直前の政局と奴隷制の是非」という大問題を映画の主要なエピソードに据えてしまっては、歴史として余りにも痛々しいものになってしまうと判断したのでしょう。
2つの州で批准手続きが遅れたというのは、直接的にはそれほど意味はないのかもしれません。ですが、批准が遅れたという事実は、奴隷制と南北分断の記憶が20世紀末まで生々しく続いていたということを象徴しているとも言えなくもないのです。歴史書なら良いのですが、ハリウッドの、しかも人気監督であるスピルバーグの大作映画としては、そのような国家分断の「痛み」を描くことは、まだ時期尚早である、そのような判断があったのかもしれません。
ストーリーを簡潔に絞っただけでなく、南軍についてもある種の節度をもって描写していることなど、国家分断という「歴史の傷」に対して、スピルバーグの姿勢には礼節が感じられます。歴史ドラマとしては例外的なヒットになったのは、そうした姿勢が好感をもって受け止められているからだと思われます。
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