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冷泉彰彦 プリンストン発 日本/アメリカ 新時代
ニューヨーク・フィルの「iPhone 着信音事件」、その時指揮者は?
昨年末にご紹介した小澤征爾氏と村上春樹氏の対談本について、一点気になる部分がありました。それは往年の巨匠レナード・バーンスタイン(『ウェストサイド物語』の作曲者でも有名)が音楽監督だった時代に研修生として指揮をした経験に基づいて、小澤氏がニューヨーク・フィルハーモニーの演奏姿勢について否定的であった点です。
小澤氏の批判は、特に弦楽器の奏法が「軽い」というものでしたが、この点に関しては一昨年からアラン・ギルバート氏が音楽監督に就任したことで大きく改善されています。楽団の名誉のためにも、そのことを申し上げておきたいと思います。このギルバート氏は、日本人のお母様が同楽団の現役バイオリスト、お父様も同楽団のバイオリニストで本人もバイオリン奏者であり、就任早々に弦楽セクションの奏法を変更しているからです。
さて、このギルバート氏ですが、NYフィルの音楽監督として最も力を入れているのは、グスタフ・マーラーの交響曲です。例えば、「復活」という副題のついた2番のシンフォニーは、昨年の「9・11十周年」のメモリアルコンサートで取り上げて、その熱演が評判になっています。今年(2011-2012の楽季)にギルバート氏は、そのマーラーの9番を取り上げました。
このマーラーの9番という曲は、このオーケストラに取っても、ニューヨークの町に取っても特別な意味合いがあります。晩年のマーラーがユダヤ人への差別に苦しむなど、ウィーンの国立歌劇場音楽監督という世界の音楽界の最高峰(約100年後に小澤征爾氏が務めたポジションです)で必ずしも上手く仕事ができず、差別のない「新世界」アメリカの、このニューヨーク・フィルの指揮者として着任していた時期があるのです。9番の交響曲はこの時期に着想されています。(実際の執筆は夏期休暇を利用してイタリアで行われたようですが)
ニューヨークに取っては、ユダヤ系のマーラーが他でもないニューヨークの町に触発されて書いた作品であり、同時に健康問題を抱えて死期を意識した彼の総決算という意味での作品であり、出来栄えとしてもマーラー芸術の絶頂とも言うべき傑作だということ、更には同じユダヤ系のバーンスタインが曲の普及に努力した(70年の大阪万博の際に来日公演でこの曲を取り上げたのは日本でも伝説になっています)こともあって、特別な意味があるのです。
ギルバート氏の場合も、NYフィルに来る前に音楽監督をしていたスウェーデンのストックホルム王立フィルとの関係で言えば、離任の際に楽団との総決算としてこの曲をレコーディングしています。この録音に関して言えば、1楽章を早めのテンポでまとめる一方で、最終の第4楽章を極めて遅いテンポで進めて全体の構成感に新鮮さを出そうとしていました。コンサートには私は残念ながら行けませんでしたが、NYでも同様の解釈で演奏したようです。
その他でもないマーラーの9番の交響曲、そのマーラーが「死に絶えるように」とメモ書きの指示をつけた緩やかな第4楽章が終わりに近づき、聴衆が弱音に耳を澄ませている、そしてギルバート氏としては「第4楽章を遅めに」という解釈の最後の仕上げに集中しているその時に、何と iPhone の着信音がホールに鳴り響いたのです。10日の火曜日のことでした。
このニュース、ブログやツイッターで拡散する中、CBSが11〜12日にかけて大きく取り上げて、NY地区では話題になっています。そのブログ(「スーパーコンダクター」)に寄稿されたカイラ・シムスという音大生のレポートによれば、「事故」が起きた直後にギルバート氏は演奏を中断したそうです。「犯人」は最前列席に座っていた高齢の男性で、iPhone を最近入手したものの操作には習熟しておらず、アラームが鳴ったのを止める方法も分からない様子だったようです。
ギルバート氏は、その男性のところへ行って粘り強く「解決」を待ち、OKになると問題の「消え入るような結末」の一連のエピソードが始まる前の一斉強奏のところまで「巻き戻し」て、もう一度「弱音の美学」を再現し、今度は無事に最後まで行ったそうです。場内は大変な拍手となったと報じられています。問題の男性は「退場処分」にはならなかったそうです。
ちなみに「事故」の真っ最中にギルバート氏は、その男性に「もう大丈夫になりましたか?」などと声をかけて直接確認をしていたそうですし、聴衆に対しては「普通この種類のトラブルは無視して演奏するのですが、今回は音楽へのダメージが大きいので中断しました」という説明を行なったと伝えられています。
このニュースが丸一日ニューヨークのメディアを賑わせたというのは、勿論この曲がニューヨーカーのお気に入りだということもありますが、ギルバート氏の「ダメージ・コントロール」が見事だったということもあるでしょう。例外的な「危機」において、何よりも必要なことは機転を利かせるだけでなく、必要なコミュニケーションを取ることだ、そんな教訓をこの若い日系人指揮者は教えてくれたのだと思います。
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