コラム

「法の支配」の問われたこの一週間

2010年09月29日(水)11時28分

 尖閣諸島における海上保安庁艦船への中国「漁船」衝突事件に関しては、船長釈放に関して、そもそも「FD改竄事件で信用の失墜している検察を、検察を指導するべき立場の政治家が隠れ蓑にしている」という批判があるようです。ただ、これからの長い時間を、「中国流の人治+形式的な法治」に屈してゆくのか、逆に「法の下における平等」を核とした「法の支配」を守ってゆくのかという「アジアの法秩序構築合戦」を戦ってゆくためには、もう少し精緻な議論が必要だと思います。

 まず司法のあり方については、紆余曲折の結果として発足した裁判員制度は、時間をかけて対象を拡大してゆくことが必要でしょう。その一方で、検察による起訴のプロセスも、内容を公開しつつ公正に開いてゆくことが必要だと思います。1つの例は、今回の中国船長への不起訴処分などの透明化です。例えば、起訴をするかしないかを大陪審という形で市民参加にするとか、尋問に当たっての弁護士の同席や、こうした外国人の犯罪に関してはこれまで以上に中立的な通訳の同席を認める(今回は通訳が入っていたのだと思いますが)などの対策を積み重ねてゆくべきです。

 そう申し上げると、被疑者に甘いようでは犯罪の立件が難しくなるという批判もありそうですが、「疑わしきは罰せず」という法の大原則を守る姿勢を誇示しつつ、今回のような悪質な故意犯(のようです)に関しては厳格な処分ができるようにしていかねば、法の支配のクオリティは守れないように思います。その点で、尖閣の一件と、厚生労働省の局長に関して証拠の捏造などで冤罪が作られていった事件はつながるのです。透明にすることと、悪は悪として厳正に処断することと、そこに原理原則を一貫させて法の支配の思想の強固なところを示すことはすべて「一つにつながった」問題なのだと思います。

 この法の支配という問題は、日本の国内問題や日中関係だけの問題だけではありません。日米の間で懸案になっている、在沖米軍などに適用される「日米地位協定」の問題もここに深く関わっています。基地の敷地外で犯罪を犯した疑いのある米兵は、現在の協定では日本側の検察が起訴しない限り、身柄の引渡しを要求できないのです。どうしてかというと、起訴前の被疑者取調べに関して、現在の日本の制度では(1)禁固刑など刑罰として受刑者を拘束する施設に被疑者を収容する(代用監獄)、(2)弁護士の同席が認められない、(3)外部との連絡が許されない、などの問題があり、例えば米軍としては指揮下の米兵の人権が保証できないからということが口実になっているからです。

 その背景にある感覚は、生麦事件など「攘夷派志士のテロ」に懲りて「日本という野蛮な国」で商売をするには「治外法権」が必須だ、などという明治前半期の欧米諸国が持っていた差別意識と全く同じです。これでは、対等な同盟も何もあったものではないと思います。また、仮に起訴して身柄を拘束することができても、一部の報道によれば米兵の容疑者に関してのみ、取調べに関する可視化や弁護士の同席が許されているそうで、仮に真実であるとすれば、これまた鹿鳴館外交のような屈辱的な話です。

 勿論、中国船の船長や悪いことをした沖縄の米兵を、「日本人並に」密室で罵倒したり、勝手にストーリーを描いて調書にサインさせたり、代用監獄の劣悪な環境で心理的に追い詰めたりすれば「平等になる」から良い、そんなわけはありません。外国人の被疑者や、地位協定に守られた米兵と同じように、日本人の被疑者の取調べに関しても、弁護士の同席を認め可視化を実行すべきなのです。そのようにして「法の下の平等」という法の支配の実績を重ねてゆくことで、国際社会の信頼を勝ち得てゆく、そしてそのことが地位協定の改善や恫喝外交を論破してゆく説得力になってゆくのだと思います。

 今週の武富士破綻というニュースも「法の支配」が問われている話です。そして現況は決していい方向には行っていません。問題は最高金利が20%に制限されていることです。確かに世論の中にある、サラ金の取り立てに悩む人や自殺者への同情というのは当然だと思います。ですが、この問題を解決するには、秩序ある破産法制(どうしようもなくなったら破産できる透明な制度)と取り立てにおける暴言や迷惑行為、を「刑事犯」として厳格に取り締まる、更には借金返済のためとして女性に風俗業などでの労働を強制したり、生命保険への加入を強要するような行為を重罪とするなどの方策で臨むべきでした。

 そうではなくて、高金利が悪だとか、多重債務が悪だということから金利の上限と総量規制という方向になってしまったのは私は本末転倒だと思います。今でも違法な金融業者は地下に潜っていて、悪質な取り立てや人身売買的な行為は根絶出来ていないわけで、ここでも法の支配のクオリティは損なわれたままです。女性を中心とした人身売買的な行為に関して言えば、この点を含む女性の人権という問題では、現時点でも中国と日本では人権の達成レベルは逆転しているという危機感を持つべきだと思うのです。それはともかく、金利だけで切って白、グレー、黒の三段階に分け、グレーを根絶しただけというサラ金法制では、十分ではないと思います。

 この最高金利の制限ということで言えば、日本振興銀行の破綻も、破綻こそしてはいませんが新銀行東京が業務を限りなく縮小している問題も、同じことです。法人向けの貸し出しについて高リスクの借り手に対しては、最高金利が20%に制限されている中では、グレーゾーンの借り手を相手に資金供給をすることはもはや不可能だということです。要は、20%以下の条件での融資が組める優良なところは生き残るが、20%以上のハイリスクのマネーにしか頼れない借り手は「捨てられる」ということです。極論を言えば、個人にしても法人にしても、20%以上でなければ借りられないハイリスクな存在は「国に助けてもらう社会主義」での救済か、闇の世界に頼って暴力に晒されるか、という「国家統制かあるいは暴力か」という場所に放り出されるわけです。要するに市場と法の支配からは見放されるということです。

 いずれにしても、中国の前近代性への批判を貫くためには、「法の支配」という自らの中の近代を常に問い直してゆく努力が求められます。その姿勢が、いつの日か中国の人と社会にも希望を与えることができれば、東アジア共同体というような話は、そこで初めて出てくるのだと思います。一方で、近代的な「法の支配」では先進国のアメリカでも、保守派からは(例えばペイリン女史など)、テロ容疑者に憲法上の黙秘権や弁護士選任権を与えるのは、憲法を命がけで守っている米軍兵士に失礼などという妙な理屈で、閉鎖的な軍事裁判を支持する声もあるのです。そのぐらい「法の支配」を守るのは大変なのですが、腹を据えてやっていかねばと思うのです。

(追記)戦後日本の法曹界では「正義に基づく法律による支配」のことは「法の支配」と呼んでおり、「誤っていても法で縛る」悪しき律法主義や、行き過ぎた大陸法による条文至上主義ののことを「法治」と呼んでいるようです。本日のアップ時には、肯定的なニュアンスで「法治」という言葉を使ってしまいましたが、一部に読者の方の誤解を招いたようですので、タイトルも含めてすべて「法の支配」に改めました。ただ、私としては、英米法があらゆる点で大陸法より優れているとは考えていませんので、「法の支配」イコール英米法的な「コモンロー(社会常識としての不文律)」を全面的に日本を含むアジアに適用することまでは主張しておりません。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

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